阿野廉子とは? わかりやすく解説

阿野廉子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/15 06:16 UTC 版)

阿野 廉子(あの れんし/かどこ[注釈 1])は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての女房後宮女院後醍醐天皇の側室・寵姫にして[1]祥子内親王(日本最後の伊勢神宮斎宮)、皇太子恒良親王、征夷大将軍成良親王(北朝の皇太子)、そして義良親王すなわち後村上天皇らの母である。従三位に叙されて三位内侍(さんみのないし)[注釈 2]、また院号宣下を受けて新待賢門院(しんたいけんもんいん)と呼ばれた。


注釈

  1. ^ 阿野家の通字である廉(かど)に照らせば、訓読みでは「あの かどこ」と呼ばれたと推測される。なお、実家は阿野家であるが、洞院家の養女となったため、当時としては洞院 廉子(とういん れんし/かどこ)であるとも考えられるが、後世の書籍でその様に呼ばれることはまずない。
  2. ^ 廉子は軍記物語『太平記』では「三位局」(さんみのつぼね)と称されるが、史実としては他の側室の二条藤子らも従三位を受けているため「三位局」では特定できない(藤子は『太平記』では存在自体がなかったことにされている)。『増鏡』では「三位宣旨」である藤子に対し、廉子は「三位内侍」と呼ばれている。
  3. ^ 廉子と同じく後に後醍醐天皇の側室ともなり懐良親王をもうける。
  4. ^ 後に後醍醐天皇第一皇子尊良親王の妻。
  5. ^ 『女院次第』による。元亨元年(1321年)とする文献もあるが、その史料出典は明らかでない。

出典

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 43頁。
  2. ^ 森 2013, §1.2.3 寵姫阿野廉子.
  3. ^ 『大日本史料』6編1冊392–393頁.
  4. ^ a b c 森 2013, §2.2.1 女帝さながらの阿野廉子.
  5. ^ 亀田 2014, p. 171.
  6. ^ 亀田 2014, pp. 171–175.
  7. ^ a b c 兵藤 2018, pp. 83–88.
  8. ^ 川瀬一馬 『新発見の資料に拠る新待賢門院御陵墓攷』 安田文庫、1939年


「阿野廉子」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「阿野廉子」の関連用語

阿野廉子のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



阿野廉子のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの阿野廉子 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS