惟子内親王説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 06:27 UTC 版)
『大日本史』が嘉喜門院との贈答歌を根拠に後村上天皇の皇女と推定して以来、もっぱらこの説が踏襲されていた。しかし、女院が阿野廉子の菩提を弔うために観心寺に寄進を重ねていることに着目した小木喬は、後醍醐天皇と廉子との間に生まれた末娘で、後村上の同母妹ではないかと考えた。 深津睦夫・君嶋亜紀もまた、「後醍醐天皇皇女、母は新待賢門院廉子か」としている。 小木説では惟子内親王とは別の廉子の娘とされているが、所京子は一歩進めて、惟子ではないか、と主張している。また、その誕生年については、延元元年/建武3年(1336年)もしくはその翌年ごろではないか、と推測している。『新葉和歌集』神祇・607の阿野廉子の歌の詞書に、「延元の比子もりの社へまゐらせて(略)」とあり、廉子が延元年間(1336年 - 1440年)に子守を司る吉野水分神社に参詣したことがわかり、新たな子が誕生したと考えられるからである。 また、所説よりさらに前にも、東京大学史料編纂所の『大日本史料』6編22冊の558ページで、廉子の七七忌御願文を書いた一品内親王=惟子説は唱えられている。
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