新宣陽門院とは? わかりやすく解説

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新宣陽門院

(惟子内親王 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/30 00:24 UTC 版)

新宣陽門院(しんせんようもんいん)は、南北朝時代南朝皇族女院歌人院号宣下以前には、一品宮(いっぽんのみや)・一品内親王と称した。


注釈

  1. ^ 近世の史料である『南朝編年記略』によれば、興国5年(1344年)後村上院の第一皇女として生誕、正平7年(1352年)1月一品に叙され、天授2年(1376年)1月准三后となる。同4年(1378年2月4日皇太子良泰親王准母として院号宣下を受け(一本は翌5年2月とする)、元中8年(1391年)6月伊勢国多気の北畠顕泰第で薨去、金剛宝寺に葬られたと伝えられる。
  2. ^ 大日本史料』は奉納者の一品内親王に「惟子」(後醍醐天皇皇女)と注する[1]所京子も小木の見解を引用しつつ、女院を惟子内親王と同一人としている(別節)。
  3. ^ 『大日本史料』は寄進者の一品宮に「興良親王」(護良親王王子)と注するが、これは誤りである。
  4. ^ なお、『日本歴史地名大系』(平凡社、2006年)は、『本間文書』中の、建武2年5月12日付の遠江国高部郷(静岡県袋井市)に関する文書を「惟子内親王家令旨」と称し、同郷は惟子内親王家領であるとしている[11]。これに従えば、惟子は建武2年(1335年)かそれ以前の出生となる。しかし『大日本史料』所収の同文書では、単に「内親王家御領」とある[12]。なぜ『日本歴史地名大系』がこの内親王を惟子に比定したのか、理由は書かれていない[11]

出典

  1. ^ a b 『大日本史料』6編22冊556–564頁.
  2. ^ 『観心寺文書』正平14年8月30日付一品宮令旨
  3. ^ 『賜蘆文庫文書』正平14年12月3日付後村上天皇綸旨
  4. ^ 深津 & 君嶋 2014, p. 254.
  5. ^ 深津 & 君嶋 2014, p. 250.
  6. ^ 『観心寺文書』元中3年12月14日付讃岐守仲益奉書
  7. ^ 『観心寺文書』元中4年2月14日付新宣陽門院令旨
  8. ^ 『観心寺文書』元中6年7月8日付新宣陽門院令旨
  9. ^ a b 深津 & 君嶋 2014, p. 351.
  10. ^ a b c 所 2000, pp. 117–119.
  11. ^ a b 「静岡県:袋井市 > 高部村」『日本歴史地名大系』平凡社、2006年。 
  12. ^ 『大日本史料』6編2冊403–404頁.


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