北畠顕泰
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北畠 顕泰(きたばたけ あきやす[2])は、南北朝時代から室町時代前期にかけての公卿・武将。右大臣北畠顕能の二男[3]。父から伊勢国司を継ぎ、南朝方として多気を拠点に活躍したが、南北朝合一後は室町幕府に帰順した。
- ^ 『伊勢記』
- ^ 『寛永諸家系図伝』は「あきひろ」と訓ずる。
- ^ 「北畠顕泰」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』
- ^ 『南方紀伝』・『南朝編年記略』
- ^ 『沢氏古文書』(元中4年)2月19日付北畠顕泰書状案
- ^ 『伊勢之巻』などによれば、顕泰は後亀山天皇へ使者を送り、講和の内容に反対する旨を諫奏したものの、天皇の容れるところとはならなかったという。
- ^ 『南朝編年記略』
- ^ 安堵された所領は伊賀名張郡・伊勢数郡・志摩英虞郡・大和宇陀郡(『南方紀伝』)。ただし、伊賀・志摩が当時の所領に含まれていたかは疑問である。
- ^ 旧楠町史 1978, pp. 78–79.
- ^ 『寛永諸家系図伝』
- ^ 『系図纂要』は応永9年10月29日(1402年11月24日)薨、享年42とする。
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