元中年間の出来事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:39 UTC 版)
※ 南朝関係に限る。 元年(1384年) 7月4日 - 菊池武朝・葉室親善が累代の戦功を記した申状を奏上する(弘和4年の年号を使用)。 2年(1385年) 6月 - 南朝(征西府か)の多くの軍士が援兵を借りるために高麗へ渡るという。 9月10日 - 長慶上皇が高野山丹生社に宸筆の「雌雄」願文(国宝)を奉納する。 3年(1386年) 4月5日 - 長慶上皇が二見越後守に院宣を下し、紀伊静川荘領家職を知行させる(最後の院宣)。 5月27日〜29日 - 小山若犬丸が下野祇園城で挙兵し、守護代木戸修理亮を破る。 4年(1387年) 7月19日 - 上杉朝宗が足利氏満の命で常陸小田城を攻撃し、小田孝朝を敗走させる。 5年(1388年) この春 - 楠木正勝(正秀とも)が河内で挙兵するも、山名氏清に敗れて退却する(平尾合戦)。 6年(1389年) 1月 - 花山院長親が自らの家集『耕雲千首(英語版)』を書写し、序でにその奥書を加える。 3月1日 - 北畠顕泰が北伊勢を攻撃するも、一色詮範・仁木義長が防戦する。 3月18日 - 後亀山天皇が阿蘇惟政に綸旨を下し、後征西将軍宮への忠勤を促す。 7年(1390年) この春 - 楠木氏・和田氏が河内落合で北軍の山名氏・畠山氏と交戦するという。 9月 - 今川貞臣が肥前深堀氏らの援軍を率いて肥後宇土城・河尻城を陥落する。 8年(1391年) 9月 - 後征西将軍宮・名和顕興が今川貞臣と一時講和を結び、八代城を明け渡す。 10月8日 - 五条頼治が津江・矢部の間に拠守し、大友親世の一族と交戦して撃退する。 9年(1392年) 1月18日? - 楠木正勝・正元が河内千早城で畠山基国と交戦するも敗走する。 10月13日 - 将軍足利義満が阿野実為へ請文を送り、南北朝講和の条件を提示する。 10月28日 - 後亀山天皇と廷臣・武士らが三種の神器を奉じて吉野行宮を出立する。 閏10月2日 - 後亀山天皇が京都に還御し、嵯峨大覚寺に入る。 閏10月5日 - 後亀山天皇が譲位し、北朝が三種の神器を接収する(南北朝合一)。 10年(1393年)以降 九州征西府や東国新田氏を中心とする南朝勢力の間では、合一後もなお「元中」年号が使用され続けた。具体例としては、『阿蘇文書』に元中10年(1393年)、『五条家文書』に同11年(1394年)・同12年(1395年)、『市河文書』に同14年(1397年)、『日枝神社文書』に同18年(1401年)の各年紀を持つ文書がある。
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