垂坂山攻防戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/05 05:21 UTC 版)
1369年(正平24年)に美濃国の土岐頼康は足利義満の命令を受けて伊勢国に侵入したが、敗北した。そこで北畠顕泰は三重郡に数城(柿城・楠城)などを築き千種経顕を総大将として統治させた。しかし1372年(文中元年)に北朝側の仁木義長が大矢知城主南部頼勝に味方して、朝明郡水無瀬山に築城して北畠顕泰と対戦する事となった。茂福城主の朝倉下総守らは仁木氏と南部氏を攻撃したが、逆に茂福城が包囲されたため、北畠顕泰は2000余騎の援軍を差し向けて、垂坂山に布陣した。やがて垂坂山攻防戦が開始された。 激戦の末、仁木南部軍は500人の戦死者を出して、残兵は茂福勢、柿の沼木軍、下の山の見永軍に討伐された。
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