垂仁天皇3年条
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『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子の天日槍が渡来したと記す。その際に次の7物、 羽太の玉(はふとのたま) 1箇 足高の玉(あしたかのたま) 1箇 鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま) 1箇 出石の小刀(いづしのかたな) 1口 出石の桙(いづしのほこ) 1枝 日鏡(ひのかがみ) 1面 熊の神籬(くまのひもろき) 1具 を持ってきて、これらを但馬国に納め永く神宝としたという。 垂仁天皇紀3年条一云の系図 太耳 知古 天日槍 麻多烏 但馬諸助 但馬日楢杵 清彦 田道間守 同条に記された別伝によると、天日槍は初め播磨国に停泊して宍粟邑にいた。これに対し、天皇は大友主(三輪氏祖)と長尾市(倭氏祖)とを播磨に派遣して天日槍の尋問をさせた。この時、天日槍は新羅王子であると自称し、日本に聖皇がいると聞いたので新羅を弟の知古(ちこ)に任せて自分は日本への帰属を願ってやって来た、と語った。そして次の8物、 葉細の珠(はほそのたま) 足高の珠 鵜鹿鹿の赤石の珠 出石の刀子 出石の槍 日鏡 熊の神籬 胆狭浅の大刀(いささのたち) を献上した。そこで天皇は播磨国宍粟邑と淡路島出浅邑の2邑に天日槍の居住を許したが、天日槍は諸国を遍歴し適地を探すことを願ったので、これを許した。そこで天日槍は、菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑にしばらくいたのち、近江から若狭国を経て但馬国に至って居住した。近江国鏡村の谷の陶人(すえびと)が天日槍の従者となったのは、これに由来するという。また天日槍は但馬国出島(出石に同じ)の太耳の娘の麻多烏(またお)を娶り、麻多烏との間の子に但馬諸助(もろすく)を儲けた。そしてこの諸助は但馬日楢杵(ひならき)を儲け、日楢杵は清彦(きよひこ)を、清彦は田道間守を儲けたという。
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