木造御所の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 10:19 UTC 版)
南北朝時代に南朝に仕えて伊勢国司として同国に勢力を張った北畠顕能の子顕俊・俊通父子が、一志郡木造庄に居住したのを起源とする。俊通が子を儲けずに早世したため、北畠顕泰の養子となっていた顕俊の子・北畠俊泰(のち俊康に改名)が戻って木造御所の家号を継承した。 室町時代には、北畠氏の庶家でありながら、宗家と同格の待遇を室町幕府や朝廷から受け、応仁の乱の際は宗家と刃を交えている。戦国時代に入ると政宗、俊茂、具康のもとで戸木城や川北城を築城し、北畠宗家と共に長野工藤氏と抗争した。 織田信長の伊勢侵攻が行われた頃には、宗家北畠具教の実弟である木造具政が養子に入って木造御所を継承していた。具政は当初織田氏に対抗したが、家臣柘植保重および一族出身の僧侶・源浄院(のち還俗して滝川雄利を称する)の薦めによって信長の調略に応じ、木造氏は織田氏に仕えることになった。 織田信長が北畠氏を屈服させ、信長の次男・茶筅丸(信雄)が北畠家を継ぐと、木造具政の嫡男長政は信雄の家臣となり、小牧・長久手の戦い等で戦功を重ねた。信雄が豊臣秀吉によって改易された後は、信長の嫡孫である岐阜城主織田秀信に家老として仕え、美濃国に2万5千石を領した。
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