藤原殖子とは? わかりやすく解説

藤原殖子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/23 07:48 UTC 版)

藤原 殖子(ふじわら の しょくし/たねこ、保元2年(1157年) - 安貞2年9月16日1228年10月15日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性高倉天皇後宮後高倉院(守貞親王)後鳥羽天皇の母。女院坊門 殖子とも。父は従三位藤原(坊門)信隆。母は藤原休子(大蔵卿藤原(持明院)通基の女)。内大臣坊門信清は同母弟。院号七条院(しちじょういん)。




  1. ^ 山内益次郎『今鏡の周辺』和泉書院、1993年、P95-96
  2. ^ 栗山圭子『中世王家の成立と院政』吉川弘文館、2012年、P198


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