惟任と淳方の関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 13:24 UTC 版)
貞応2年(1223年)に提出された「小槻惟任申状案」では惟任は国宗を「父」と称しており、寛喜年間(1229年~1232年)までは壬生流の長としての活動が見られる。しかし、『壬生家譜』や諸系図等の史料には惟任に該当する人物は存在しない。一方の淳方は国宗の孫にあたり、国宗の子息である通時が早世したことから子として跡を継いだとされる。この両者については、以下理由により同一人物と想定される。 両者の生年・経歴が類似している一方で、このような叔父・甥の関係であれば二人の間で家督争いが生じるはずだがそのような痕跡は見られない。生年について、惟任が建仁元年(1201年)前後、淳方が建仁2年(1202年)と極めて近い。 両者ともに、壬生流の嫡流が相伝する主殿頭を務めている。 淳方の活動については寛喜3年(1230年)を遡ることが確認できない一方で、この時期には惟任が壬生流の代表として先例勘申・史生の統轄あるいは大夫史相続の訴えなどに、活動している様子が見られる。 文永10年(1272年)の壬生流・大宮流相論において、惟任が父の譲りを得て官務に譲補されるはずだった貞応年間の相論の主体を淳方と記している。
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