惟純復帰の時期について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 13:47 UTC 版)
惟純が塩谷の地を奪還し復帰した時期について、塩谷氏が信仰した寺山観音寺の縁起の記述を基にして、永治元年(1141年)とする説がある。縁起に記された惟純が戦ったとする「武者が嶽の戦い」に関する記述に因るものだが、縁起に記されたその年代は、永保2年(1082年)であって、永治元年ではない。しかし、この説では、永保2年の記述は、永治元年の誤りだとする。まず縁起では、永保二年を辛酉年としているが、辛酉年は永保元年であって、また、同じ縁起で、惟純の父である頼純の出来事を惟純の後世の年代の事として記しており、時代的に錯誤していること、さらには、武者が嶽の戦いでは、佐竹・那須両氏と戦ったことになっているが、永保年間には、佐竹氏も那須氏もともに創始されておらず、これらの点から、武者が嶽の戦いは、永保年間の辛酉年ではなく、年代的に適合する永治元年の辛酉年に行われたとするものである。 しかし、確かに当縁起に記された事績には、実際に年代的な記述の間違いが多い事が指摘されているも、この記述の年代も間違いであるという確証もなければ、架空の伝説に過ぎない可能性も否定できない。ただ、『堀江記』や『堀江物語絵巻』を参照にして年代を追っていくと、永治元年の時、惟純は16歳であり、15歳の時に決起して上洛した記述と整合性が取れるため、この説が有力なものになりつつある。但し、相変わらず決定的な確証もないので、有力な諸説のひとつという位置づけになっている。
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