尊氏討伐と敗退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 05:20 UTC 版)
事実上の官軍総大将となった義貞は上将軍として尊良親王を奉じ、脇屋義助、義治、堀口貞満はもとより、千葉貞胤、宇都宮公綱、武田氏、河越氏などの東国勢、大友氏、大内氏、厚東氏、佐々木氏など西国勢などを率いて東海道から鎌倉へ向かい、軍勢は10万以上に膨れ上がった。途中、東海道と東山道、軍勢を二手に分けて進軍した。同じ頃、北畠顕家も陸奥から手勢を率いて進軍を開始する。東海道、東山道、陸奥の三方向から鎌倉を突き、足利兄弟を討ち取るという作戦であったが、この大規模な軍勢は統率を欠いていた。形式上の総大将である尊良親王の周辺には側近の公家達がおり、彼らは「口煩いだけ」の存在であった。加えて同時に進軍した北畠顕家は従二位鎮守府将軍であり、従四位上の義貞は立場上顕家に指図できなかった。そのため指揮系統が混乱して上手く連携が取れず、義貞は顕家よりも早く軍を進めてしまい、挟撃のタイミングを逃したばかりか、足利側にとっては、兵をまとめて出撃するだけの余裕を与えてしまう、早すぎ、かつ、遅すぎる進撃速度であった。 足利尊氏は躁鬱の気質があったとされ、義貞と顕家から討伐を受けたこの時は護良親王を殺害した後悔やその贖罪、恩人である後醍醐帝に刃を向ける背信行為などから鬱状態にあり、遁世しようとする有様であった。そのため、代わりに直義が軍議を開き、軍勢を纏め上げて出撃する。出撃した足利勢は、11月25日に三河国矢作で激突し、矢作川の戦い(愛知県岡崎市)が生じた。この戦いでは、新田軍が矢作川を渡ってきた足利軍を破って勝利した。その後、東進して追撃する新田軍を足利軍は駿河国(静岡県静岡市駿河区)で迎撃する(手越河原の戦い)が、ここでも敗北する。新田軍は官軍であり、足利軍の兵士達の中には朝敵の烙印を押される恐怖から新田軍に投降するものも多かった。敗退を重ねた足利軍は、箱根の水呑に陣を構え、新田軍の攻撃に備えた。同時に、直義や足利軍の主要武将が出家を企図していた尊氏を説得し、尊氏は翻意して出撃する。 なおも進撃した義貞は、箱根・竹下で足利勢と三度激突する(箱根・竹下の戦い)。義貞は、箱根を越える道を二手に分かれて行動することを計画した。義貞は、足利軍は、箱根山の南を通り湯本へ繋がる「本道」の方に重点的に守備を固め、本軍をこちらに置くだろうと考え、本隊7万をこちらに向かわせた。一方で、箱根山の北を通る道は搦手の道であり、南側の険峻な道と比べると平坦で通りやすく、こちらには弟の脇屋義助に指揮権を任せ、尊良親王と側近の公家達、あわせて7000の軍勢を進軍させた。 しかし、鎌倉目前まで攻め込まれ、後がなくなった足利軍は、軍勢のほぼ大半を出撃させてきた。その数は20万以上にも及び、さらに、これだけの大軍では隘路である南側の本道では展開しづらいことから、その内斯波高経、土岐頼遠ら18万近くが、平坦な搦手道の方へ向かってしまった。義貞本隊と激突するのは、直義が率いる6万程度の軍勢であった。その上、新田軍は士気が低下しており、義貞も陣頭に立って突撃することはなく、後方に構えて静観しているばかりであった。一方、搦手道を進んだ脇屋義助らは、多勢に無勢で苦戦を強いられていた。そんな折、説得に応じて前線に戻ってきた尊氏が指揮を取るようになった。これによって足利軍の士気が昂揚し、形勢は一気に足利軍に有利となり、12月13日に新田軍は総崩れとなった。
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