皇太子と密かに
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『花園院宸記』正和3年(1314年)1月20日条によれば、正和2年(1313年)秋(7月 - 9月)ごろ、禧子は皇太子尊治親王(たかはるしんのう、のちの後醍醐天皇)によって、西園寺家から密かに連れ出された(「東宮、密かに盗み取る所なり」)。この事実は翌3年(1314年)1月初頭に発覚したが、既に禧子は妊娠5か月であったので、妃が後宮に入る参入の儀式を飛ばして、一飛びに着帯祝い(妊娠5か月時に安産祈願として腹帯を巻く儀式)をすることになった。この事件は、歴史物語の17巻本『増鏡』(14世紀半ば)の巻第13「秋のみ山」にも言及されており、時期は書かれていないが、「忍び盗み給ひて」と表現されている。前節で述べたように、このとき禧子が史実として何歳だったのか、確実には不明である。ただ、尊治は同時代を代表する『源氏物語』愛好家・研究者だった。 この出来事について、従来は「盗み取る」を「略奪」と表現していた(森茂暁の著書など)。しかし、古語における「盗む」には、「こっそりと〜する」「密かに〜する」という意味もある。したがって、同意を得ない唐突で略奪的な誘拐婚だったのか、あるいは秋より前からもともと禧子と忍んで関係があって同意を得た密かな駆け落ちだったのかは、「ぬすむ」という語からだけでは判別がつかない。日本文学分野の研究者の井上宗雄による『増鏡』の現代語訳では、「こっそりと連れ出されて」と中立的な表現に訳されている。また、この時代の皇族による「ぬすみ」婚については前例があり、後醍醐が唯一の人物という訳ではなかった。例えば、後醍醐の父である後宇多院もまた、後深草天皇皇女の姈子内親王(遊義門院)を「ぬすみ奉らせ給ひて」妃としている(『増鏡』巻第11「さしぐし」)。 足利尊氏の執奏による『新千載和歌集』には、二人が某年4月1日に忍び音と初音について詠んだという和歌が入集している。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0} 四月一日、郭公の鳴けるをよませ給ふける忍び音も けふよりとこそ 待べきに 思ひもあへぬ 郭公かな(大意:ホトトギスは四月のある日から鳴き始めると言う。その風情のある忍び音(四月のホトトギスの鳴き声)を聞こうとして、「きっと今日からだ」と、本当は何日も待ちぼうけになるべきはずだったのが、思いがけず四月初日の今日に聞くことが出来て、幸運なことだ。それは幸先良いとも言えるのだが、あなたに忍び通うのは、「今日よりも他の日だ」と、本当は堂々と付き合えるようになるまでもっと待つべきはずだったのに、思いあまって今日あなたのところへ来てしまった。迷惑だったろうか?) —後醍醐院御製、『新千載和歌集』夏・194 おなじくよませ給ふけるなきぬなり 卯月のけふの 時鳥 これやまことの 初音なるらむ(大意:ええ、不運にも、鳴いてしまいました。四月の今日の.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}時鳥(ときのとり)(ホトトギス)ですから、ただの初音(個人が初めて聞くホトトギスの鳴き声)ではなく、これこそ本当の初音(季節で初めてのホトトギスの鳴き声)なんでしょうね。それにしても、四月の今日この時、これが本当に初めての逢瀬でしたのに、もうホトトギスが鳴き始める早朝が来るなんて、夏の夜というのは、なんて短いのでしょうか。これから夜はもっと短くなってしまいますから、今日で良かったですよ) —後京極院、『新千載和歌集』夏・195 禧子と尊治の結婚理由として、比較的確実な資料が存在するのは、恋愛結婚であったということである。『増鏡』「秋のみ山」は、尊治の「わくかたなき御思ひ、年にそへてやんごとなうおはしつれば」云々と述べており、心情的に尊治は禧子に対し純粋に強い愛情を持っており、しかもそれは時を経るごとに深まっていったという。『増鏡』では全体として、夫婦仲は良好であったと描写されている。『太平記』研究者の兵藤裕己は、後に中宮となった禧子へ盛大な安産祈祷が実際に行われたことを示す鎌倉幕府の重鎮金沢貞顕の書状や、『太平記』のうち足利政権による政治的改変が入っていないと思われる箇所(巻第4等)に照らし合わせ、『増鏡』の二人の心情描写は事実であったろうとしている。 忍恋をよませ給ふけるかよふべき 道さへ絶て 夏草の しげき人めを なげく比哉(大意:夏草が生い茂って、あの人のところに通う道が途絶えたところに、繁って煩わしい人目のせいで、あの人のところに通う方法までもが絶えてしまった。嘆くばかりのこのごろだ) —今上御製、『続千載和歌集』恋一・1078 だいしらずたのめつゝ 待夜むなしき うたゝねを しらでや鳥の 驚すらむ(大意:通ってきてくれると頼りにさせておきながら、来てくれないあの人を、ただ待つ夜はとてもむなしい。うたた寝をしていても、それを知らないのでしょうか、鶏の鳴き声ではっと目が覚めてしまいました。せっかく、小野小町になった気分で、恋しいあの人に夢で逢うことだけを頼みにしていたのに…) —中宮、『続千載和歌集』恋三・1324 無論、皇太子である以上、尊治(後醍醐)が禧子を皇太子妃に選んだ理由には、政治的理由もあると推測されている。その理由は、皇統継承権の強化である。俗に鎌倉時代は武士の時代と言われているが、これは誇張表現であり、実際には鎌倉幕府は朝廷と日本を二分する国のうちの一つの「封建国家」(佐藤進一説)、あるいは複数存在した強大な権門(特権組織)のうちの「軍事を司る権門」(黒田俊雄説)に過ぎず、朝廷もまだ強い実力と高度な法体系を確保していた。とりわけ後醍醐の父の後宇多天皇は「末代の英主」と称えられる賢帝だった。当時、天皇家は後宇多・後醍醐らの大覚寺統と、それに対立する持明院統という二つの皇統に分裂しており、幕府が仲裁者となっていた(両統迭立(りょうとうてつりつ))。ところが、後醍醐が尊治親王として皇太子だった当時、大覚寺統の中でさらに、正嫡である邦良親王(尊治の甥)と、それに次ぐ尊治の系統に別れており、尊治が将来天皇位を退位した後は、基本的に邦良の系統に皇位を譲らなければならなかった。 ところで、禧子の西園寺家は代々、朝廷と鎌倉幕府の交渉役である関東申次(かんとうもうしつぎ)を世襲する家系であり、当主はしばしば太政大臣にまで登るなど、鎌倉時代には強い権勢を持つ公家だった。このような西園寺家との縁戚関係は、安定しない立場への強化となるのである。 いずれにせよ、後述するように、夫婦の間に強固な愛情があったことを物語る逸話は数多く、根底に強い恋愛感情があったのは確かである。 顕恋をよませ給ふけるいつの間に 乱るゝ色の 見えつらん しのぶもぢずり ころもへずして(大意:いつの間にバレてしまったのだろうか?「しのぶもじずり」の衣の乱れ模様の色のように、私の忍び恋の乱れた色恋は。あれからまだそんなに頃も(時間も)経っていないはずなのだが…) —御製、『続後拾遺和歌集』恋一・672 顕恋を忍べばと 思ひなすにも なぐさみき いかにせよとて もれしうき名ぞ(大意:そう、忍んでいるから大丈夫だろう、と初めは思い込んでいたのだが、心の中でにやけていたのを周りに隠すことはできなかった。一体私にどうせよ、と自問自答したら余計焦ってしまって、例の騒動だ) —今上御製、『続千載和歌集』恋一・1139
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