皇太子と密かにとは? わかりやすく解説

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皇太子と密かに

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 09:31 UTC 版)

西園寺禧子」の記事における「皇太子と密かに」の解説

花園院宸記正和3年1314年1月20日によれば正和2年1313年)秋(7月 - 9月)ごろ、禧子は皇太子尊治親王(たかはるしんのう、のちの後醍醐天皇)によって、西園寺家から密かに連れ出された(「東宮密かに盗み取る所なり」)。この事実は翌3年1314年1月初頭発覚したが、既に禧子は妊娠5か月であったので、妃が後宮に入る参入儀式飛ばして一飛び着帯祝い妊娠5か月時に安産祈願として腹帯を巻く儀式)をすることになった。この事件は、歴史物語17巻本『増鏡』(14世紀半ば)の巻第13秋のみ山」にも言及されており、時期書かれていないが、「忍び盗み給ひて」と表現されている。前節述べたように、このとき禧子が史実として何歳だったのか、確実に不明である。ただ、尊治同時代代表する『源氏物語』愛好家研究者だった。 この出来事について、従来は「盗み取る」を「略奪」と表現していた(森茂暁著書など)。しかし、古語における「盗む」には、「こっそりと〜する」「密かに〜する」という意味もある。したがって同意を得ない唐突略奪的な誘拐婚だったのか、あるいは秋より前からもともと禧子と忍んで関係があって同意得た密かな駆け落ちだったのかは、「ぬすむ」という語からだけでは判別つかない日本文学分野研究者井上宗雄による『増鏡』の現代語訳では、「こっそりと連れ出されて」と中立的な表現訳されている。また、この時代皇族による「ぬすみ」婚については前例があり、後醍醐唯一の人物という訳ではなかった。例えば、後醍醐の父である後宇多院また、後深草天皇皇女姈子内親王遊義門院)を「ぬすみ奉らせ給ひて」妃としている(『増鏡』巻第11さしぐし」)。 足利尊氏執奏による『新千載和歌集』には、二人某年4月1日忍び音初音について詠んだという和歌入集している。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0} 四月一日郭公の鳴けるをよませ給ふける忍び音も けふよりとこそ 待べきに 思ひもあへぬ 郭公かな(大意ホトトギス四月ある日から鳴き始めと言う。その風情のある忍び音四月ホトトギス鳴き声)を聞こうとして、「きっと今日からだ」と、本当何日待ちぼうけになるべきはずだったのが、思いがけず四月初日今日聞くことが出来て幸運なことだ。それは幸先良いとも言えるのだが、あなたに忍び通うのは、「今日よりも他の日だ」と、本当堂々と付き合えるようになるまでもっと待つべきはずだったのに、思いあまって今日あなたのところへ来てしまった。迷惑だったろうか?) —後醍醐御製、『新千載和歌集』夏・194 おなじくよませ給ふけるなきぬなり 卯月のけふの 時鳥 これやまことの 初音なるらむ(大意:ええ、不運にも、鳴いてしまいました四月今日の.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}時鳥ときのとり)(ホトトギス)ですから、ただの初音個人初め聞くホトトギス鳴き声ではなく、これこそ本当初音季節初めてのホトトギス鳴き声)なんでしょうね。それにしても四月今日この時、これが本当に初めての逢瀬でしたのに、もうホトトギス鳴き始め早朝が来るなんて、夏の夜というのは、なんて短いのでしょうか。これから夜はもっと短くなってしまいますから、今日良かったですよ) —後京極院、『新千載和歌集』夏・195 禧子と尊治結婚理由として、比較確実な資料存在するのは、恋愛結婚であったということである。『増鏡』「秋のみ山」は、尊治の「わくかたなき御思ひ、年にそへてやんごとなうおはしつれば」云々述べており、心情的に尊治は禧子に対し純粋に強い愛情持っており、しかもそれは時を経るごとに深まっていったという。『増鏡』では全体として夫婦仲良好であった描写されている。『太平記』研究者兵藤裕己は、後に中宮となった禧子へ盛大な安産祈祷実際に行われたことを示す鎌倉幕府重鎮金沢貞顕書状や、『太平記』のうち足利政権による政治的改変入っていないと思われる箇所(巻第4等)に照らし合わせ、『増鏡』の二人心情描写事実であったろうとしている。 忍恋をよませ給ふけるかよふべき 道さへ絶て 夏草の しげき人めを なげく比哉(大意夏草生い茂ってあの人ところに通う道が途絶えたところに繁って煩わしい人目のせいで、あの人ところに通う方法までもが絶えてしまった。嘆くばかりのこのごろだ) —今上御製、『続千載和歌集恋一・1078 だいしらずたのめつゝ 待夜むなしき うたゝねを しらでやの 驚すらむ(大意通ってきてくれると頼りにさせておきながら、来てくれないあの人を、ただ待つ夜はとてもむなしいうたた寝をしていても、それを知らないのでしょうか、鳴き声ではっと目が覚めてしまいました。せっかく、小野小町になった気分で、恋しあの人に夢で逢うことだけを頼みにしていたのに…) —中宮、『続千載和歌集』恋三・1324 無論皇太子である以上、尊治後醍醐)が禧子を皇太子妃選んだ理由には、政治的理由もあると推測されている。その理由は、皇統継承強化である。俗に鎌倉時代武士の時代と言われているが、これは誇張表現であり、実際に鎌倉幕府朝廷日本二分する国のうちの一つの「封建国家」(佐藤進一説)、あるいは複数存在した強大な権門特権組織)のうちの「軍事司る権門」(黒田俊雄説)に過ぎず朝廷もまだ強い実力と高度な法体系確保していた。とりわけ後醍醐の父の後宇多天皇は「末代英主」と称えられる賢帝だった。当時天皇家後宇多後醍醐らの大覚寺統と、それに対立する持明院統という二つ皇統分裂しており、幕府仲裁となっていた(両統迭立りょうとうてつりつ))。ところが、後醍醐尊治親王として皇太子だった当時大覚寺統の中でさらに、正嫡である邦良親王尊治の甥)と、それに次ぐ尊治系統別れており、尊治将来天皇位を退位した後は、基本的に邦良の系統皇位を譲らなければならなかった。 ところで、禧子の西園寺家代々朝廷鎌倉幕府交渉役である関東申次かんとうもうしつぎ)を世襲する家系であり、当主はしばし太政大臣にまで登るなど、鎌倉時代には強い権勢を持つ公家だった。このような西園寺家との縁戚関係は、安定しない立場への強化となるのであるいずれにせよ後述するように、夫婦の間に強固な愛情があったことを物語逸話数多く根底に強い恋愛感情があったのは確かである。 顕恋をよませ給ふけるいつの間に 乱るゝ色の 見えつらん しのぶもぢずり ころもへずして(大意いつの間にバレてしまったのだろうか?「しのぶもじずり」の衣の乱れ模様の色のように、私の忍び恋の乱れた色恋は。あれからまだそんなに頃も(時間も)経っていないはずなのだが…) —御製、『続後拾遺和歌集恋一672 顕恋を忍べばと 思ひなすにも なぐさみいかにせよとて もれしうき名ぞ(大意:そう、忍んでいるから大丈夫だろう、と初め思い込んでいたのだが、心の中にやけていたのを周りに隠すことはできなかった。一体私にどうせよ、と自問自答したら余計焦ってしまって例の騒動だ) —今上御製、『続千載和歌集恋一・1139

※この「皇太子と密かに」の解説は、「西園寺禧子」の解説の一部です。
「皇太子と密かに」を含む「西園寺禧子」の記事については、「西園寺禧子」の概要を参照ください。

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