皇太子の亡命宮廷で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 21:11 UTC 版)
「エドワード・ハイド (初代クラレンドン伯爵)」の記事における「皇太子の亡命宮廷で」の解説
国王軍の戦局が悪化の一途をたどり、交渉による和解の道も期待しえなくなる中の1645年3月、最悪の事態を覚悟したチャールズ1世は、ハイドに皇太子チャールズ(後のチャールズ2世)を託し、オックスフォードから離れて大陸へ亡命するよう命じた。 以降ハイドは15年にわたる亡命生活を送ることになった。皇太子はパリに亡命宮廷を立てたが、ハイドはしばらくの間、それに積極的には参加しなかった。3年にわたってジャージー島で過ごして国王から依頼された歴史書(『イングランドの反乱と内戦の歴史(英語版)』)の執筆活動に励んだ。1648年6月にチャールズ皇太子がイングランド侵攻を企てた際には、それを補佐するべくジャージー島を離れたが、航海中に海賊に襲撃されたため皇太子のもとに参じることができなかった。また皇太子の蜂起は結局失敗に終わった。 その後、ハイドは亡命宮廷から離れたオランダで数年を過ごした。当時のハイドは亡命宮廷内に大した力を持っていなかった。そこを支配するのは王母ヘンリエッタをはじめとする王族たちであった。ハイドが亡命宮廷内で力を持つようになったのは、1651年11月にチャールズがスコットランドでの旗揚げに失敗してパリに逃げ帰ってきた後のことである。この直後にチャールズはハイドを召喚し、以降彼を側近として使うことにした。1654年には「国王秘書長官」、1658年には「大法官」に任じられた。 国王側近となったハイドは亡命宮廷がイングランド国民の心情から離反した独りよがりな存在にならないよう努めた。例えばチャールズが後見裁判所(英語版)を復活させようと企むとそれを思いとどまらせたり、王母ヘンリエッタがカトリックに対する罰則を排することを約し、さらにチャールズをカトリックに改宗させることでカトリックの支持を得ようと主張するとそれを阻止することにも努めた。護国卿オリバー・クロムウェル打倒のためにイングランド・スコットランド内の不満分子と取引するという陰謀も積極的には行わなかった。長期議会冒頭で制定された一連の法律で規制された王政とイギリス国教制を復活させることがハイドの目的であり、これらの政策はそれに有害と考えたからである。 そして「我々がじっと待つことができなければ、神はやってこられないだろう」という心境のもと、イングランド共和国の自壊の日を辛抱強く待った。
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