皇太后時代とは? わかりやすく解説

皇太后時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/02 21:26 UTC 版)

劉皇后 (石虎)」の記事における「皇太后時代」の解説

やがて349年4月のうちに石虎崩御すると、予定通り石世即位し劉皇后皇太后立てられた。石世はまだ11歳だったので、劉皇太后垂簾聴政行い張豺と共に朝権を掌握した。劉皇太后朝廷に臨むと、張豺丞相任じたが、張豺石遵義陽石鑑石遵異母兄)が不満を抱いているのを危惧し石遵左丞相に、石鑑右丞相任じて慰撫するよう建議し劉皇太后はこれに従った張豺朝廷において一定の影響力持っていた司空李農存在を疎ましく思い彼の誅殺目論んだが、李農はこれを事前に察知して広宗へと逃走し乞活残党数万率いて上白城に籠城した。劉皇太后張挙命じ宿衛諸軍与えて上白城を包囲させた。 5月河内駐屯していた石遵帝位簒奪目論み、城において挙兵すると、武興公石閔前鋒として9の兵を率い、鄴へ向けて進撃した。さらに洛州刺史劉国は石遵挙兵知り洛陽の兵を率いて呼応し、これに合流した石遵到来を知ると、鄴にいる後趙旧臣羯族の兵はみな敵方寝返ってしまった。この事態に、劉皇太后張豺招き寄せると、悲しみ嘆いて先帝石虎)の殯はいまだ終わっていないのに、禍難がここに至りました! 今、嗣子石世)は沖幼であり、頼みとなるのは将軍張豺)です。将軍はこれをどう対処なさいますか。遵(石遵)へ重位を加えてやれば、これを鎮めることは出来でしょうか?」と問うたが、張豺恐れおののいてどうしていいか分からず、ただ「唯々(はい、はい)」と何も考えずに頷くのみであった結局劉皇太后らは抗戦諦め、詔を下して石遵丞相・領大司馬大都督中外諸軍事・録尚書事任じ黄鉞九錫加えることで混乱鎮めようとした。こうして石遵抵抗受けずに鄴へ入城を果たすと、張豺処断すると共に劉皇太后の命と称して嗣子石世)は幼沖であり、先帝私恩により世継ぎとされたものの、皇業とは重いものであり、とても耐えうるものではない。そのため、遵(石遵)に継がせるものとする」と宣言させた。これにより石遵帝位即くと、石世廃して焦王に封じ劉皇太后廃して太妃とした。間もなく劉皇太后石世と共に殺害された。

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皇太后時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:20 UTC 版)

貞明皇后」の記事における「皇太后時代」の解説

大正天皇崩御後皇太后日課如く朝食終えると大正天皇遺影安置した御霊殿向かいその日出来事新聞ニュースなどを「生ける人に仕えるよう」に語られ退出する時間はいつも午前11時半回っていたという。また、皇太子明仁親王を含む九人の孫(昭和天皇皇子女7人と三笠宮崇仁親王の子2人)の成長を楽しみとし、孫からは「おばばさま」と慕われた。特に、甯子内親王寬仁親王はたびたび御所訪問したことから、一緒に羽根つきままごと遊び付き合った1931年昭和6年)、皇太后からの下賜金をもとに「癩予防協会」が設立された。彼女の誕生日前後が「癩予防デーとなった。なお現在は「ハンセン病正しく理解する週間」と改称されている。皇太后経済支援により生活が救済され患者もいる一方、「予防」のためとして強制隔離正当化された面も否めない。また一連の活動皇太后真意関わらず皇恩」「仁慈」として、その後政治利用された側面もある。 終戦前、沼津御用邸過ごしていた貞明皇后接触深かった山本玄峰老師田中清玄らに、「皇太后様は、戦争これ以上国民苦しみ与えたくないと、いかい(=大変)心を痛めてござるわ」ともらしていた。 大戦末期貞明皇后大宮御所軽井沢(旧末松謙澄別荘)へ移転させる案が浮上し別荘改修工事急ピッチですすめられていた。1945年5月には東京大宮御所空襲により焼失し同年7月には沼津御用邸焼失皇太后直前まで天皇とともに東京に残ることを望んだが、皇室内での直々説得もあって最終的に軽井沢への疎開了承した。しかし別荘工事完成目前にして終戦となり、その結果皇太后終戦5日後から4ヶ月ほど軽井沢疎開することになった1951年昭和26年5月17日狭心症により大宮御所崩御享年66皇太子妃時代腸チフス罹った以外は特に大病罹らず健康であり、この日も恒例勤労奉仕団への会釈挨拶)を行う予定だったが、その準備をしている時に狭心症発作起きそのまま崩御した。なお当日昭和天皇学者たちより進講受けており、あまりにも突然の母宮訃報聞きしばらく言葉無かった

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皇太后時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:19 UTC 版)

香淳皇后」の記事における「皇太后時代」の解説

1989年昭和64年1月7日、夫・昭和天皇の崩御に伴い皇太后となる。昭和天皇崩御直前には、北白川女官長わずかな側近と共に天皇見舞い二人だけ別れの時間を持ったその後午前6時33分皇太子明仁親王含め5人の子(他、鷹司和子池田厚子常陸宮正仁親王島津貴子)が見守る中、昭和天皇最期看取った同年平成元年2月24日に、内閣主催行われた昭和天皇大喪の礼委員会委員長・竹下登首相)には欠席し名代常陸宮正仁親王妃華子務めたこの年には昭和天皇の他に第三皇女鷹司和子59歳没)、実妹大谷智子83歳没)が死去するなど肉親との死別続いた平成になって以降認知症症状進行し皇太后さまは老人特有の症状」と報道されていた。また、外出することも稀になる。1996年平成8年3月6日に満93歳となり、後冷泉天皇皇后藤原寛子数え年92歳を抜いて神代除いて歴代最長寿となった同年9年ぶりに近影公開された。

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皇太后時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 22:40 UTC 版)

昭憲皇太后」の記事における「皇太后時代」の解説

1912年明治45年7月30日明治天皇崩御し皇太子嘉仁親王践祚および皇太子妃節子立后同時に皇太后となった1914年大正3年4月9日午前2時10分、沼津御用邸にて狭心症のため崩御。公式には4月11日同時刻。丸2日ずらされたのは、宮内省内蔵頭当時収賄司直の手が及びかけていた宮内大臣渡辺千秋急遽更迭させるための措置であった同年5月9日宮内省告示第9号により「昭憲皇太后しょうけんこうたいごう)」と追号され、翌年5月1日に、夫の明治天皇と共に明治神宮祭神とされた。 陵墓は、京都府京都市伏見区にある伏見桃山東陵(ふしみももやまのひがしのみささぎ)。

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