皇太后時代
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やがて349年4月のうちに石虎が崩御すると、予定通り石世が即位し、劉皇后は皇太后に立てられた。石世はまだ11歳だったので、劉皇太后が垂簾聴政を行い、張豺と共に朝権を掌握した。劉皇太后は朝廷に臨むと、張豺を丞相に任じたが、張豺は石遵や義陽王石鑑(石遵の異母兄)が不満を抱いているのを危惧し、石遵を左丞相に、石鑑を右丞相に任じて慰撫するよう建議し、劉皇太后はこれに従った。 張豺は朝廷において一定の影響力を持っていた司空李農の存在を疎ましく思い、彼の誅殺を目論んだが、李農はこれを事前に察知して広宗へと逃走し、乞活の残党数万を率いて上白城に籠城した。劉皇太后は張挙に命じ、宿衛の諸軍を与えて上白城を包囲させた。 5月、河内に駐屯していた石遵は帝位簒奪を目論み、李城において挙兵すると、武興公石閔を前鋒として9万の兵を率い、鄴へ向けて進撃した。さらに洛州刺史劉国は石遵の挙兵を知り、洛陽の兵を率いて呼応し、これに合流した。石遵の到来を知ると、鄴にいる後趙の旧臣や羯族の兵はみな敵方へ寝返ってしまった。この事態に、劉皇太后は張豺を招き寄せると、悲しみ嘆いて「先帝(石虎)の殯はいまだ終わっていないのに、禍難がここに至りました! 今、嗣子(石世)は沖幼であり、頼みとなるのは将軍(張豺)です。将軍はこれをどう対処なさいますか。遵(石遵)へ重位を加えてやれば、これを鎮めることは出来るでしょうか?」と問うたが、張豺は恐れおののいてどうしていいか分からず、ただ「唯々(はい、はい)」と何も考えずに頷くのみであった。 結局、劉皇太后らは抗戦を諦め、詔を下して石遵を丞相・領大司馬・大都督・中外諸軍事・録尚書事に任じ、黄鉞・九錫を加えることで混乱を鎮めようとした。こうして石遵は抵抗も受けずに鄴へ入城を果たすと、張豺を処断すると共に、劉皇太后の命と称して「嗣子(石世)は幼沖であり、先帝の私恩により世継ぎとされたものの、皇業とは重いものであり、とても耐えうるものではない。そのため、遵(石遵)に継がせるものとする」と宣言させた。これにより石遵は帝位に即くと、石世を廃して焦王に封じ、劉皇太后を廃して太妃とした。間もなく劉皇太后は石世と共に殺害された。
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皇太后時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:20 UTC 版)
大正天皇の崩御後、皇太后は日課の如く、朝食を終えると大正天皇の遺影を安置した御霊殿に向かい、その日の出来事や新聞のニュースなどを「生ける人に仕えるよう」に語られ、退出する時間はいつも午前11時半を回っていたという。また、皇太子明仁親王を含む九人の孫(昭和天皇の皇子女7人と三笠宮崇仁親王の子女2人)の成長を楽しみとし、孫からは「おばばさま」と慕われた。特に、甯子内親王と寬仁親王はたびたび御所に訪問したことから、一緒に羽根つきやままごと遊びを付き合った。 1931年(昭和6年)、皇太后からの下賜金をもとに「癩予防協会」が設立された。彼女の誕生日の前後が「癩予防デー」となった。なお現在は「ハンセン病を正しく理解する週間」と改称されている。皇太后の経済支援により生活が救済された患者もいる一方、「予防」のためとして強制隔離が正当化された面も否めない。また一連の活動が皇太后の真意に関わらず「皇恩」「仁慈」として、その後も政治利用された側面もある。 終戦前、沼津の御用邸で過ごしていた貞明皇后と接触の深かった山本玄峰老師は田中清玄らに、「皇太后様は、戦争でこれ以上国民に苦しみを与えたくないと、いかい(=大変)心を痛めてござるわ」ともらしていた。 大戦末期、貞明皇后の大宮御所を軽井沢(旧末松謙澄別荘)へ移転させる案が浮上し、別荘の改修工事が急ピッチですすめられていた。1945年5月には東京の大宮御所が空襲により焼失し、同年7月には沼津御用邸も焼失。皇太后は直前まで天皇らとともに東京に残ることを望んだが、皇室内での直々の説得もあって最終的には軽井沢への疎開を了承した。しかし別荘の工事完成を目前にして終戦となり、その結果皇太后は終戦5日後から4ヶ月ほど軽井沢に疎開することになった。 1951年(昭和26年)5月17日、狭心症により大宮御所で崩御。享年66。皇太子妃時代に腸チフスに罹った以外は特に大病に罹らず健康であり、この日も恒例の勤労奉仕団への会釈(挨拶)を行う予定だったが、その準備をしている時に狭心症の発作が起き、そのまま崩御した。なお当日、昭和天皇は学者たちより進講を受けており、あまりにも突然の母宮の訃報を聞きしばらく言葉が無かった。
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皇太后時代
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1989年(昭和64年)1月7日、夫・昭和天皇の崩御に伴い皇太后となる。昭和天皇崩御の直前には、北白川女官長らわずかな側近と共に天皇を見舞い、二人だけの別れの時間を持った。その後、午前6時33分、皇太子明仁親王を含め5人の子(他、鷹司和子、池田厚子、常陸宮正仁親王、島津貴子)が見守る中、昭和天皇の最期を看取った。 同年(平成元年)2月24日に、内閣の主催で行われた昭和天皇の大喪の礼(委員会委員長・竹下登首相)には欠席し、名代を常陸宮正仁親王妃華子が務めた。この年には昭和天皇の他に第三皇女の鷹司和子(59歳没)、実妹の大谷智子(83歳没)が死去するなど肉親との死別が続いた。 平成になって以降は認知症の症状が進行し「皇太后さまは老人特有の症状」と報道されていた。また、外出することも稀になる。1996年(平成8年)3月6日に満93歳となり、後冷泉天皇の皇后藤原寛子の数え年92歳を抜いて神代を除いては歴代最長寿となった。同年、9年ぶりに近影が公開された。
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皇太后時代
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1912年(明治45年)7月30日、明治天皇が崩御し、皇太子嘉仁親王の践祚および皇太子妃節子の立后と同時に皇太后となった。 1914年(大正3年)4月9日午前2時10分、沼津御用邸にて狭心症のため崩御。公式には4月11日同時刻。丸2日ずらされたのは、宮内省内蔵頭当時の収賄で司直の手が及びかけていた宮内大臣渡辺千秋を急遽更迭させるための措置であった。 同年5月9日、宮内省告示第9号により「昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)」と追号され、翌年5月1日に、夫の明治天皇と共に明治神宮の祭神とされた。 陵墓は、京都府京都市伏見区にある伏見桃山東陵(ふしみももやまのひがしのみささぎ)。
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