朝権を掌握とは? わかりやすく解説

朝権を掌握

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:22 UTC 版)

石虎」の記事における「朝権を掌握」の解説

石勒死後石虎すぐさま石弘身柄抑えて朝廷臨んだまた、程遐徐光捕らえて廷尉下し、やがて殺害した。さらに、子の石邃に兵を与えて宿衛侵入させ、文武百官支配下置いた石弘大い恐れ石虎へ位を譲ろうとしたが、石虎は「君(君主)がじたならば、世子が立つものです。これは礼の常であり、臣はどうしてこれを乱せましょうか!」と応じなかった。だが、石弘は涙を流して頑なに位を譲ろうとしたので、石虎怒って「もしその任に堪えられなかったならば、自ずと天下で大議が起こりましょう。どうして今その論を預かるに足りましょうか!」と言い放ち遂に石弘強制的に皇帝即位させた。 同月後趙将軍石聡・譙郡太守彭彪は石虎見限って各々東晋使者派遣し帰順要請した。その為、東晋朝廷は督護喬球に将兵与えて救援に向かわせたが、到着する前に石虎は兵を派遣して石聡らを誅殺した。 8月石虎丞相・大単于任じられ九錫下賜された。また、魏王封じられると、魏郡始め13郡を封国とし、百官全て取り仕切るよう命じられた。石虎形式的にこれを固く辞退したが、しばらくしてからその命を受けたまた、石虎の妻鄭桜桃魏王后に、子の石邃は魏太子立てられ石邃は使持節侍中大都督中外諸軍事・大将軍録尚書事石宣は使持節車騎大将軍冀州刺史河間王、石韜前鋒将軍司隷校尉楽安王、石遵斉王石鑑代王石苞楽平王、石斌章武となった石虎石勒時代からの文武旧臣をみな左右丞相府の閑職追いやり、代わって石虎の府に仕えていた側近朝廷重職独占させた。また、太子宮を崇訓宮と改称し劉皇太后以下をみな移住させ、さらに美しく淑やかな者や、石勒所持していた車馬珍宝・服御から上品を選ぶと、全て自らの官署入れた

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朝権を掌握

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 07:10 UTC 版)

張瓘」の記事における「朝権を掌握」の解説

同月隴西の人である李儼張瓘服従する事を拒み東晋元号である永和用いて隴西において自立した。すると、多くの民がこれを歓迎し李儼の下に集った張瓘李儼討伐為に兵を挙げ将軍牛覇を派遣した。だが、西平の人である衛綝が郡ごと反乱起こし進軍途上の牛覇を攻撃した。これにより、牛覇の軍は潰えてしまい、牛覇は単騎逃げ帰った張瓘はまず衛綝先に討ちたかったが、兄である張珪が衛綝の軍におり、衛綝もまた弟が張瓘の軍にいたので、互いに手を出す事を躊躇った。だが、やがて張瓘は張珪を顧みる事を止め、弟の張琚大軍与えて衛綝を討たせ、これを破った同時期、西平の人である田旋は酒泉郡太守馬基を擁立し張瓘背いて衛綝呼応していた。張瓘は彼らの反乱を知ると、司馬張姚・王国に兵2千を与えて討伐に向かわせた。張姚らは馬基を破り、馬基・田旋の首級挙げて姑臧送った356年1月前秦征東大将軍晋王苻柳参軍閻負・殊を使者として前涼派遣し張玄靚親書渡した。閻負らが姑臧到着すると、張瓘は彼らと接見して「我は晋臣であり、境外の者と交わる気はない。二君何をもって恥ずかしくもやって来たのか」と問うと、閻負らは「晋王苻柳)と君(張瓘)の領土接しております山河に阻絶されているといえども、風は通じ道は会っております故に修好に来たまでです。君は何を怪しみましょうか!」と答えた張瓘は「我らはただ晋に忠義尽くし、今で六代になる。もし苻征東苻柳)と通使などすれば、上は先君の志に違い、下は士民の節が崩れてしまう。どうしてそのような事が出来ようか!」と拒絶すると、閻負らは「晋室が衰微し天命失ってから久しいです。故に涼の先王は二趙に北面しましたが、これは機というものを理解していたからです(張茂前趙従属し張駿後趙従属した)。今、大秦威徳はまさに盛んであり、もし涼王が河右(河西)において帝を望んだとしても、秦の敵ではありますまい。小をもって大に仕えるのであれば、晋を捨て秦に仕えるのです。それでこそ福禄を保つ事が出来ましょう!」と勧めた張瓘は「中州中原)の人間約束守らぬ以前にも、石氏とは使者交わし合っていたのに、その戎騎が到来した。我は信用できん」と述べると、閻負らは「古の帝王中州居座りましたが、その政策各々異なります。趙は奸詐為しましたが、秦は信義篤いのです。どうして一括り出来ましょうか張先楊初はみな兵を阻んで服従しなかったので、先帝はこれを討伐って捕らえました。しかしながら、その罪は赦され、爵禄をもって寵遇受けました。石氏と比べるのは誤りです」と反論した張瓘は「君の言のように秦の威徳無敵であるならば、どうしてまず江南東晋)を取らないのだ。そうすれば天下尽く秦のものとなろう。どうして征東などする必要がある!」と問うと、閻負らは「江南には文身入れ墨)の風俗があり、汚邪によって先に反しております故、服させるにはまず教化盛んにする必要がります。主上苻生)が江南赴く際には兵服となりましょうが、河右の民は義を懐かしんでおります故にこうして先に使者派遣して修好申し述べているのです。もし君が天命に背くならば、江南数年の間延命出来ましょうが、河右は恐らく君の土地では無くなる事でしょう」と答えた張瓘は「我は三州に跨って拠り10万越える兵を擁している。西は葱嶺押さえ、東は大河征し数多くの敵を除いたというのに、自らも守れないというのかね。どうして秦を恐れようか!」と言い放った。閻負らは「貴州(あなたの国)には山河の固があると言っても、崤(崤山)・函(函谷関)より強固いえますか。物資の豊さで秦・雍より上といえますか。杜洪張琚趙氏威勢をもち、兵は強く財は富み関中制圧し四海席巻する志を有しておりました。しかし、先帝苻健)が戎旗を西へ指すと、のように散り、氷のように消え、僅かの内に主は交代しました。主上は、もし貴州が服さなければ赫然として憤怒し、100万の兵を発し軍鼓鳴らして西行ましょう。これを待たねば、貴州がどうなるか分かりませんか」と脅した張瓘笑って「それは王(張玄靚)が決め事だ。この身にはどうする事も出来ぬと言ったが、閻負らは「涼王は英睿・夙成といえども未だ幼年でありましょう。君は伊(伊尹)・霍(霍光)の任にあり、国家安危は、君の一挙にかかっているのですぞ」と告げた張瓘はこれを大い恐れ張玄靚命じて前秦使者派遣させ、藩国となる旨を告げさせた。これにより前涼前秦従属化に入り張玄靚前秦より爵位授かった張瓘張琚兄弟国内において強盛誇り、自らの勲功威勢に驕っていた。また、張瓘賞罰はすべて自らの好み行い、そこに綱紀などなかったという。 358年5月郎中殷郇が張瓘振る舞い諫めると、張瓘は「虎は生まれて三日にして自ら肉を食べる事が出来るという。これは人から教えられたものではない」と言い放ち改めようとしなかった。これにより、次第人心離れていき、彼に敢えて進言ようとする者はいなくなった市街では殺人絶えなくなり、乱を望む者が10のうち9にも及んだという。

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