朝権を掌握
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石勒の死後、石虎はすぐさま石弘の身柄を抑えて朝廷に臨んだ。また、程遐・徐光を捕らえて廷尉に下し、やがて殺害した。さらに、子の石邃に兵を与えて宿衛に侵入させ、文武百官を支配下に置いた。石弘は大いに恐れ、石虎へ位を譲ろうとしたが、石虎は「君(君主)が薨じたならば、世子が立つものです。これは礼の常であり、臣はどうしてこれを乱せましょうか!」と応じなかった。だが、石弘は涙を流して頑なに位を譲ろうとしたので、石虎は怒って「もしその任に堪えられなかったならば、自ずと天下で大議が起こりましょう。どうして今その論を預かるに足りましょうか!」と言い放ち、遂に石弘を強制的に皇帝に即位させた。 同月、後趙の将軍石聡・譙郡太守彭彪は石虎を見限って各々東晋へ使者を派遣し、帰順を要請した。その為、東晋朝廷は督護喬球に将兵を与えて救援に向かわせたが、到着する前に石虎は兵を派遣して石聡らを誅殺した。 8月、石虎は丞相・大単于に任じられ、九錫を下賜された。また、魏王に封じられると、魏郡を始め13郡を封国とし、百官を全て取り仕切るよう命じられた。石虎は形式的にこれを固く辞退したが、しばらくしてからその命を受けた。また、石虎の妻鄭桜桃は魏王后に、子の石邃は魏太子に立てられ、石邃は使持節・侍中・大都督・中外諸軍事・大将軍・録尚書事、石宣は使持節・車騎大将軍・冀州刺史・河間王、石韜は前鋒将軍・司隷校尉・楽安王、石遵は斉王、石鑑は代王、石苞は楽平王、石斌は章武王となった。 石虎は石勒の時代からの文武の旧臣をみな左右丞相府の閑職に追いやり、代わって石虎の府に仕えていた側近に朝廷の重職を独占させた。また、太子宮を崇訓宮と改称して劉皇太后以下をみな移住させ、さらに美しく淑やかな者や、石勒の所持していた車馬・珍宝・服御から上品を選ぶと、全て自らの官署に入れた。
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朝権を掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 07:10 UTC 版)
同月、隴西の人である李儼は張瓘に服従する事を拒み、東晋の元号である永和を用いて隴西において自立した。すると、多くの民がこれを歓迎し、李儼の下に集った。張瓘は李儼討伐の為に兵を挙げ、将軍牛覇を派遣した。だが、西平の人である衛綝が郡ごと反乱を起こし、進軍途上の牛覇を攻撃した。これにより、牛覇の軍は潰えてしまい、牛覇は単騎で逃げ帰った。張瓘はまず衛綝を先に討ちたかったが、兄である張珪が衛綝の軍におり、衛綝もまた弟が張瓘の軍にいたので、互いに手を出す事を躊躇った。だが、やがて張瓘は張珪を顧みる事を止め、弟の張琚に大軍を与えて衛綝を討たせ、これを破った。 同時期、西平の人である田旋は酒泉郡太守馬基を擁立し、張瓘に背いて衛綝に呼応していた。張瓘は彼らの反乱を知ると、司馬張姚・王国に兵2千を与えて討伐に向かわせた。張姚らは馬基を破り、馬基・田旋の首級を挙げて姑臧へ送った。 356年1月、前秦の征東大将軍・晋王苻柳が参軍閻負・梁殊を使者として前涼へ派遣し、張玄靚へ親書を渡した。閻負らが姑臧へ到着すると、張瓘は彼らと接見して「我は晋臣であり、境外の者と交わる気はない。二君は何をもって恥ずかしくもやって来たのか」と問うと、閻負らは「晋王(苻柳)と君(張瓘)の領土は接しております。山河に阻絶されているといえども、風は通じ道は会っております。故に修好に来たまでです。君は何を怪しみましょうか!」と答えた。張瓘は「我らはただ晋に忠義を尽くし、今で六代になる。もし苻征東(苻柳)と通使などすれば、上は先君の志に違い、下は士民の節が崩れてしまう。どうしてそのような事が出来ようか!」と拒絶すると、閻負らは「晋室が衰微し、天命を失ってから久しいです。故に涼の先王は二趙に北面しましたが、これは機というものを理解していたからです(張茂は前趙に従属し、張駿は後趙に従属した)。今、大秦の威徳はまさに盛んであり、もし涼王が河右(河西)において帝を望んだとしても、秦の敵ではありますまい。小をもって大に仕えるのであれば、晋を捨て秦に仕えるのです。それでこそ、福禄を保つ事が出来ましょう!」と勧めた。張瓘は「中州(中原)の人間は約束を守らぬ。以前にも、石氏とは使者を交わし合っていたのに、その戎騎が到来した。我は信用できん」と述べると、閻負らは「古の帝王は中州に居座りましたが、その政策は各々で異なります。趙は奸詐を為しましたが、秦は信義に篤いのです。どうして一括りに出来ましょうか!張先・楊初はみな兵を阻んで服従しなかったので、先帝はこれを討伐って捕らえました。しかしながら、その罪は赦され、爵禄をもって寵遇を受けました。石氏と比べるのは誤りです」と反論した。張瓘は「君の言のように秦の威徳が無敵であるならば、どうしてまず江南(東晋)を取らないのだ。そうすれば、天下は尽く秦のものとなろう。どうして征東などする必要がある!」と問うと、閻負らは「江南には文身(入れ墨)の風俗があり、汚邪によって先に反しております故、服させるにはまず教化を盛んにする必要がります。主上(苻生)が江南へ赴く際には兵服となりましょうが、河右の民は義を懐かしんでおります。故にこうして先に使者を派遣して修好を申し述べているのです。もし君が天命に背くならば、江南は数年の間延命出来ましょうが、河右は恐らく君の土地では無くなる事でしょう」と答えた。張瓘は「我は三州に跨って拠り、10万を越える兵を擁している。西は葱嶺を押さえ、東は大河を征し、数多くの敵を除いたというのに、自らも守れないというのかね。どうして秦を恐れようか!」と言い放った。閻負らは「貴州(あなたの国)には山河の固があると言っても、崤(崤山)・函(函谷関)より強固といえますか。物資の豊さで秦・雍より上といえますか。杜洪・張琚は趙氏の威勢をもち、兵は強く財は富み、関中を制圧し、四海を席巻する志を有しておりました。しかし、先帝(苻健)が戎旗を西へ指すと、雲のように散り、氷のように消え、僅かの内に主は交代しました。主上は、もし貴州が服さなければ、赫然として憤怒し、100万の兵を発し、軍鼓を鳴らして西行しましょう。これを待たねば、貴州がどうなるか分かりませんか」と脅した。張瓘は笑って「それは王(張玄靚)が決める事だ。この身にはどうする事も出来ぬ」と言ったが、閻負らは「涼王は英睿・夙成といえども、未だ幼年でありましょう。君は伊(伊尹)・霍(霍光)の任にあり、国家の安危は、君の一挙にかかっているのですぞ」と告げた。張瓘はこれを大いに恐れ、張玄靚に命じて前秦へ使者を派遣させ、藩国となる旨を告げさせた。これにより前涼は前秦の従属化に入り、張玄靚は前秦より爵位を授かった。 張瓘・張琚の兄弟は国内において強盛を誇り、自らの勲功・威勢に驕っていた。また、張瓘は賞罰はすべて自らの好みで行い、そこに綱紀などなかったという。 358年5月、郎中殷郇が張瓘の振る舞いを諫めると、張瓘は「虎は生まれて三日にして自ら肉を食べる事が出来るという。これは人から教えられたものではない」と言い放ち、改めようとしなかった。これにより、次第に人心は離れていき、彼に敢えて進言しようとする者はいなくなった。市街では殺人が絶えなくなり、乱を望む者が10のうち9にも及んだという。
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