朝権を握る
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楊駿の死後、恵帝は司馬亮を太宰・録尚書事に任じて剣履上殿・入朝不趨の特権を与え、当時太保の位にあった衛瓘と共に輔政の任に就けた。司馬亮はまず人心を得ようと考え、楊駿討伐の功績として1081人を侯に封じたが、御史中丞傅咸はこの封爵は過剰であるとして司馬亮を諫めた。また司馬亮は実権を握るとほとんどの政務を自ら行ったので、傅咸は細かな事案は各部門に任せるように再び諫め、また過度の権勢の拡大やこれに媚び諂う勢力の増長への警戒を促したが、司馬亮は聞き入れなかった。また甥の東武公司馬澹は弟の東安公司馬繇と対立しており、司馬亮へ「弟の東安公は賞罰を勝手に行い、朝政を壟断しようとしております」と訴えると、司馬亮はこれを信じて司馬繇を罷免し、帯方郡に移らせた。 司馬亮は先の楊駿一派の排斥に参加した司馬瑋を、横暴で殺人を好む人物であったため忌み嫌っており、衛瓘と協議してその兵権を奪うべく司馬瑋を北軍中候から解任したが、後任の臨海侯裴楷は司馬瑋の逆鱗を恐れて職を辞してしまった。さらに司馬亮は再び衛瓘と謀り、司馬瑋を始めとした諸王に封国への帰還を命じたが、司馬瑋はさらに激怒してこの命令を撥ね付け、また同じく司馬亮と衛瓘に不満を持っていた皇后の賈南風と結託し、司馬亮・衛瓘を排除する事を決めた。
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朝権を握る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 08:52 UTC 版)
張玄靚は張天錫を使持節・冠軍大将軍・都督中外諸軍事に任じ、輔政を委ねた。張玄靚はまだ幼く、その性格は仁弱であったので、張天錫が政治を専断するようになった。12月、張天錫は張祚の代を挟んでそれまで前涼で代々用いられてきた「建興」の年号を改め、升平5年として東晋の定めた年号に合わせた。363年8月、張玄靚の母の郭氏は張天錫の専横を憎み、大臣の張欽らと謀って張天錫の誅殺を目論んだが、この計画は事前に露見し、張天錫は張欽らを尽く誅殺した。張玄靚はこれを大いに恐れ、位を張天錫へ譲ろうとしたが、張天錫は受けなかった。 同月、右将軍劉粛らは議して、張玄靚が幼沖であり国家は多難である事から、長君が立つべきであると述べ、張天錫へ自立を勧めた。張天錫はこれに同意し、劉粛らに兵を与えて夜のうちに入宮させると、張玄靚を殺害させた。その後、張天錫は張玄靚が急死したと宣言した。
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