東晋に降る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 08:52 UTC 版)
9月、張天錫は長安に到着すると、帰義侯に封じられ、侍中・比部尚書に任じられた。苻堅は前涼征伐に際して張天錫のために新しい邸宅を造っており、予定通り張天錫はその邸宅に住むこととなった。383年8月、苻堅は80万を超える大軍を率いて南征に出ると、張天錫は征南大将軍苻融の征南司馬となり、これに従軍して寿春に屯した。11月、前秦と東晋が淝水にて交戦し、前秦軍が壊滅的な大敗を喫する(淝水の戦い)と、張天錫は陣営を脱出して東晋軍に帰順し、この帰還に従って建康に入った。 孝武帝は詔を下して「かつて秦の穆公は、晋との戦いに大敗した際の指揮官であった孟明(中国語版)を更迭せずに用いた。どうして過去の失敗一つを理由に、才能のある者を用いずにいようか」と述べ、張天錫を散騎常侍・左員外に任命した。さらに詔を下して「もとの太尉・西平公張軌は遠方においてその徳は著しく、代々その労があった。強兵を阻んでいたが、遂に守りを失うに至った。散騎常侍天錫は高位にありながら朝に登り、先祖の祭祀は廃されることとなった。これに憐れみ嘆くばかりである。天錫に西平公の爵位を復すべきである」と述べ、張天錫はやがて金紫光禄大夫に任じられた。 張天錫は幼い頃より文才があり、遠近から名を知られて邁人の傑であると称されていた。そのため、東晋に帰順して以降は非常に恵まれた待遇を受け、孝武帝は彼を重んじていつも終日に渡って論じ合った。だが、国が敗れて虜となったことから、彼を誹る朝士もまた多かったという。やがて精神を病んで生気を失ってしまい、列位に処されてはいたものの、誰もまともに相対しなくなった。隆安年間、会稽王の世子である司馬元顕は、朝権を握るようになると、しばしば張天錫を呼び出しては愚弄したという。403年12月、桓玄が帝位を簒奪し桓楚を建国すると、彼は遠方の民を招懐しようと考え、張天錫を護羌校尉・涼州刺史に任じた。 406年、この世を去った。享年61。鎮西将軍・金紫光禄大夫を追贈され、悼公と諡された。子の張大豫は河西に逃れて後涼の天王呂光と涼州を争ったが、敗れて殺された。
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