前涼征伐
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同年、張駿の死を好機と見た石虎は、涼州刺史麻秋・将軍王擢・孫伏都らを前涼へ侵攻させた。王擢は武街を攻略して護軍曹権・胡宣を捕らえ、七千家を超える民を雍州へ強制移住させた。さらに、麻秋・孫伏都は歩騎3万を率いて金城を攻略し、太守張沖を降伏させた。涼州は大混乱に陥り、前涼の民は恐怖におののいた。張重華は国内の兵を総動員し、征南将軍裴恒を総大将にして後趙軍を迎撃させた。裴恒は出撃すると、広武まで進んで砦を築いたものの、敵の勢いを恐れて戦おうとしなかった。その為、張重華は主簿であった謝艾を中堅将軍に抜擢し、5千の兵卒を与えて麻秋を攻撃させた。謝艾が兵を率いて振武から出陣すると、麻秋は迎撃するも大敗を喫し、将軍綦毋安を始めとして5千の兵を失って金城へ撤退した。 その後、金城が再び前涼の支配下に入ると、麻秋は再度攻めてこれを下した。県令の車済は降伏せず、剣により自害した。その後、麻秋は大夏を攻撃すると、前涼の護軍梁式は太守宋晏を捕らえ、城を挙げて降伏した。麻秋は宋晏に書を持たせ、前涼の宛戍都尉宋矩の下へ派遣し、降伏を促させた。だが、宋矩はこれを拒絶して妻子を殺した後に自殺した。 347年、石虎は桑梓苑において自ら藉田を耕し、皇后杜珠が近郊において先蚕の礼を行った。その後、襄国へと赴いて石勒の墓に謁した。 4月、麻秋に8万の兵を与えて枹罕を攻撃させた。前涼の晋昌郡太守郎坦・武城郡太守張悛・寧戎校尉常據は枹罕城を固守すると、麻秋は幾重にも城を包囲し、雲梯を揃えて地下道を掘り、四方八方から同時に攻めた。だが、枹罕城の守りは固く、麻秋軍は数万の兵を失った。これを受け、石虎は将軍劉渾に2万の兵を与え、麻秋の援軍として派遣した。郎坦は後趙に寝返ろうと目論み、軍士の李嘉へ命じて後趙兵千人を密かに城壁へ導かせたが、常據に阻まれて失敗した。さらに、常據により攻城戦の道具も焼き払われ、麻秋は大夏まで退却する事を余儀なくされた。 石虎は征西将軍石寧に并州・司州の兵2万余りを与えて麻秋の後続とし、前涼征伐を継続させた。これを聞くと、前涼の将軍宋秦は2万戸を率いて降伏した。張重華は謝艾を使持節・軍師将軍に任じ、3万の兵を与えて臨河まで進軍させた。麻秋は3千の精鋭兵に命じて突撃させたが、謝艾は別将張瑁を別道から麻秋軍の背後へ回り込ませ、奇襲を仕掛けた。これにより軍は混乱して後退し、謝艾は勢いに乗って進撃した。麻秋は大敗を喫し、杜勲・汲魚の2将を失い、1万3千の兵が捕らえられた。麻秋自身は単騎で大夏まで逃げ帰った。 5月、麻秋は石寧らと共に再び前涼へ侵攻し、12万の軍勢で河南へ駐屯した。また、劉寧・王擢を派遣して晋興・広武・武街を攻略させ、洪池嶺を越えて曲柳まで進撃させた。張重華は将軍牛旋に迎撃を命じたが、牛旋は枹罕まで退いて交戦しようとしなかったので、姑臧の民は大いに動揺した。その為、張重華は謝艾を使持節・都督征討諸軍事・行衛将軍に、索遐を軍正将軍に任じ、2万の軍勢を与えて敵軍を防がせた。劉寧は沙阜において別将の楊康に敗れ、金城まで退却した。 7月、石虎は孫伏都・劉渾の両将に2万の兵を与え、麻秋と合流させた。麻秋らは進軍して河を渡ると、金城の北へ長最城を築いた。謝艾は神鳥に陣を布くと、迎え撃って来た王擢を打ち破り、後趙軍を河南まで押し返した。8月、謝艾はさらに進撃して麻秋と交戦し、これを撃破した。遂に麻秋は金城まで撤退した。この報告を受け、石虎は「我は一軍の兵だけで九州を平定した。それが今、九州の総力を挙げても枹罕ごときを落とせない。前涼に有能な将軍が居る限り、手が出せん!」と大いに嘆いた。 8月、沙門呉進は進み出て石虎へ「胡運が衰え、晋が復興しようとしております。晋人に苦役を課し、その気を厭うべきでかと」と勧めると、石虎は尚書張群を派遣して近郡の男女16万人、車10万乗を徴発し、華林苑の造営の為と鄴北に長壁を築く為、土を運ばせた。長壁は数十里にも及んだので、趙攬・石璞・申鍾は共に上疏して「今、天文は錯乱し、百姓は疲弊しております。また、苦役を大興するのは明主のやる事ではありません。どうか民を惜しんでくださいますよう」と述べた。その言葉は甚だ切直であったが、石虎は「苑や壁が朝に完成したならば、我は夕に死のうとも恨みはない」と言い放ち、趙攬らの要請を容れず、張群を促して燭を灯して夜通しで作業するよう命じた。こうして三観・四門が完成した。そのうち三門には水を引き込み、全てに鉄扉を設けた。だが、暴風と大雨が起こり、数万人の死者を出した。また、北城を穿鑿して華林園に水を引き入れたが、これにより城が崩壊し、圧死した者が100人を越えた。 9月、麻秋はまたも前涼へ侵攻すると、将軍張瑁を撃破し、3千人余りの首級を挙げた。枹罕護軍李逵は大いに恐れ、7千の兵を従えて麻秋に降伏した。これにより、黄河以南の氐族・羌族は尽く後趙の傘下に入った。 石虎の命により、石宣は山川において遊猟を行い、福を祈願する事となった。石宣は大輅に乗り、羽葆・華蓋を携え、天子の旌旗を建てると、16軍総勢18万で金明門より出発した。石虎は後宮の陵霄観に昇ってこれを望むと、笑って「我が家の父子はこのようである。自ずと天崩地陷でもしなければ、何を憂おうというのか!ただ子を抱いて孫と戯れ、日々楽しむのみである」と述べた。 石宣は馳逐する事を好み、行く先々の行宮においてこれを行った。人を列と為して周りを広く囲ませ、四面は各々百里ほどとなった。そこで禽獣を走らせ、暮れに至ると一か所に集めた。文武の官吏達を跪かせて動かないよう命じ、囲みを守らせた。かがり火により昼のように照らし出された。精鋭百騎余りを走らせて射撃を命じ、石宣は姫妾と共に輦(乗輿)でこれを見物し、帰るのを忘れる程楽しんだ。獣が尽くいなくなると、狩猟を終えた。逃げ出した獣も居たが、逃がした者に爵位が有れば馬を奪って1日徒歩で歩かせた。爵位が無くば鞭打ち100回とした。余りにも峻制厳刑であったため、文武官は戦慄し、飢えや凍えにより1万を超える士卒が亡くなった。石宣は弓馬や衣食を全て天子の所有物であると称し、これに反発する者は禁罪を冒したとして罪とされた。一行は3州15郡を通過したが、通過した場所には資産は何も残らなかった。 石虎はまた石韜にも継いで出発させ、并州を出て秦州・雍州へ至る経路も同様であった。石宣は同列に扱われた事に激怒し、ますます石韜を妬むようになった。宦官趙生は石宣から寵愛を受けていたが、石韜からは重んじられなかった。その為、密かに石韜を除くよう石宣へ勧めた。これにより、石宣は石韜の謀殺を考え始めるようになった。
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