前涼征伐とは? わかりやすく解説

前涼征伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:22 UTC 版)

石虎」の記事における「前涼征伐」の解説

同年張駿の死を好機見た石虎は、涼州刺史麻秋将軍王擢孫伏都らを前涼侵攻させた。王擢は武街を攻略し護軍・胡宣を捕らえ、七千家超える民を雍州強制移住させた。さらに、麻秋孫伏都は歩騎3率いて金城攻略し太守張沖を降伏させた。涼州大混乱に陥り、前涼の民は恐怖おののいた張重華国内の兵を総動員し、征南将軍裴恒を総大将にして後趙軍を迎撃させた。裴恒は出撃すると、広武まで進んで砦を築いたものの、敵の勢い恐れて戦おうとしなかった。その為、張重華主簿であった謝艾中堅将軍抜擢し、5千の兵卒与えて麻秋攻撃させた。謝艾が兵を率いて振武から出陣すると、麻秋迎撃する大敗喫し将軍綦毋安を始めとして5千の兵を失って金城撤退したその後金城が再び前涼支配下に入ると、麻秋再度攻めてこれを下した県令車済降伏せず、剣により自害したその後麻秋大夏攻撃すると、前涼護軍式は太守宋晏を捕らえ、城を挙げて降伏した麻秋は宋晏に書を持たせ前涼の宛戍都尉宋矩の下へ派遣し降伏を促させた。だが、宋矩はこれを拒絶して妻子殺した後に自殺した347年石虎桑梓苑において自ら藉田耕し皇后杜珠近郊において先の礼を行ったその後襄国へと赴いて石勒の墓に謁した4月麻秋に8の兵を与えて枹罕攻撃させた。前涼晋昌郡太守郎坦・武城太守張悛・寧戎校尉常據枹罕城を固守すると、麻秋幾重にも城を包囲し雲梯揃えて地下道掘り四方八方から同時に攻めた。だが、枹罕城の守り固く麻秋軍は数万の兵を失った。これを受け、石虎将軍劉渾2万の兵を与え麻秋援軍として派遣した。郎坦は後趙に寝返ろう目論み、軍士の嘉へ命じて後趙千人密かに城壁へ導かせたが、常據阻まれ失敗した。さらに、常據により攻城戦道具焼き払われ麻秋大夏まで退却する事を余儀なくされた。 石虎征西将軍石寧に并州司州の兵2万余り与えて麻秋後続とし、前涼征伐を継続させた。これを聞くと、前涼将軍宋秦は2万戸を率いて降伏した張重華謝艾を使持節軍師将軍任じ、3の兵を与えて臨河まで進軍させた。麻秋は3千の精鋭兵に命じて突撃させたが、謝艾は別将張瑁を別道から麻秋軍の背後回り込ませ、奇襲仕掛けた。これにより軍は混乱して後退し謝艾勢い乗って進撃した麻秋大敗喫し勲・汲の2将を失い1万3千の兵が捕らえられた。麻秋自身単騎大夏まで逃げ帰った5月麻秋は石寧らと共に再び前涼侵攻し12軍勢河南駐屯した。また、劉寧王擢派遣して晋興・広武・武街を攻略させ、洪池嶺を越えてまで進撃させた。張重華将軍牛旋に迎撃命じたが、牛旋は枹罕まで退いて交戦しようとしなかったので、姑臧の民は大い動揺した。その為、張重華謝艾を使持節都督征討諸軍事・行衛将軍に、索遐を軍正将軍任じ2万軍勢与えて敵軍を防がせた。劉寧は沙阜において別将の楊康敗れ金城まで退却した7月石虎孫伏都劉渾の両将に2万の兵を与え麻秋合流させた。麻秋らは進軍して河を渡ると、金城北へ長最城を築いた謝艾神鳥に陣を布くと、迎え撃って来た王擢打ち破り後趙軍を河南まで押し返した。8月謝艾はさらに進撃し麻秋交戦し、これを撃破した遂に麻秋金城まで撤退した。この報告を受け、石虎は「我は一軍の兵だけで九州平定した。それが今、九州総力挙げて枹罕ごときを落とせない。前涼有能な将軍が居る限り、手が出せん!」と大い嘆いた8月沙門呉進は進み出て石虎へ「胡運が衰え、晋が復興しようとしております。晋人に苦役課し、その気を厭うべきでかと」と勧めると、石虎尚書張群派遣して近郡の男女16万人、車10万乗を徴発し、林苑造営の為と鄴北に長壁を築く為、土を運ばせた。長壁数十里にも及んだので、趙攬石璞申鍾は共に上疏して「今、天文錯乱し百姓疲弊しておりますまた、苦役大興するのは明主のやる事ではありません。どうか民を惜しんでくださいますよう」と述べた。その言葉甚だ切直であったが、石虎は「苑や壁が朝に完成したならば、我は夕に死のうとも恨みはない」と言い放ち趙攬らの要請を容れず、張群促して燭を灯して夜通し作業するよう命じた。こうして三観四門完成したそのうち三門には引き込み全て鉄扉設けた。だが、暴風大雨起こり数万人の死者出したまた、北城穿鑿し林園引き入れたが、これにより城が崩壊し圧死した者が100人を越えた9月麻秋はまたも前涼侵攻すると、将軍張瑁を撃破し、3千人余り首級挙げた枹罕護軍李逵大い恐れ、7千の兵を従えて麻秋降伏した。これにより、黄河以南氐族羌族尽く後趙傘下入った石虎の命により、石宣山川において遊猟行い、福を祈願する事となった。石宣は大輅に乗り、羽葆・華蓋携え天子旌旗建てると、16総勢18で金明門より出発した石虎後宮の陵霄観に昇ってこれを望むと、笑って我が家父子このようである。自ずと天崩地陷でもしなければ何を憂おうというのか!ただ子を抱いて孫と戯れ日々楽しむのみである」と述べた石宣は馳逐する事を好み行く先々行宮においてこれを行った。人を列と為して周り広く囲ませ、四面各々百里ほどとなった。そこで禽獣走らせ暮れに至ると一か所に集めた文武官吏達を跪かせて動かないよう命じ囲みを守らせた。かがり火により昼のように照らし出された。精鋭百騎余り走らせて射撃命じ石宣は姫妾と共に輦(乗輿)でこれを見物し帰るのを忘れる程楽しんだ尽くいなくなると、狩猟終えた逃げ出した居たが、逃がした者に爵位有れば馬を奪って1日徒歩で歩かせた。爵位無く鞭打ち100回とした。余りにも峻制厳刑であったため、文武官は戦慄し飢え凍えにより1万超える士卒亡くなった石宣弓馬衣食全て天子所有物であると称し、これに反発する者は禁罪を冒したとして罪とされた。一行3州15郡を通過したが、通過した場所には資産は何も残らなかった。 石虎はまた石韜にも継いで出発させ、并州出て秦州雍州へ至る経路も同様であった石宣同列扱われた事に激怒し、ますます石韜を妬むようになった。宦官趙生は石宣から寵愛受けていたが、石韜からは重んじられなかった。その為、密かに石韜を除くよう石宣勧めた。これにより、石宣石韜謀殺考え始めようになった

※この「前涼征伐」の解説は、「石虎」の解説の一部です。
「前涼征伐」を含む「石虎」の記事については、「石虎」の概要を参照ください。

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