前涼・成漢との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:22 UTC 版)
340年10月、前涼君主張駿は後趙の盛強さを恐れ、別駕馬詵を派遣して後趙へ入貢させた。石虎はこれを聞くと大いに喜んだが、その上表文が傲慢であった事から気分を害し、馬詵を斬ろうとした。石璞はこれを諌めて「今、国家が先に除くべきなのは遺晋(東晋)です。河右(河西)のような小さい地は取るに足りず、気にかけるほどもありません。今、馬詵を斬ったならば、必ず張駿を征討することとなり、南方討伐の為の兵を二分することになります。そうなれば、建康の君臣は数年の間命を延命させる事になります。それに、これに勝っても成果は乏しく、勝たなければ四夷の笑いものとなります。これを厚遇したほうがよいと存じます。もし彼らが考えを改め、臣下を率いて謝罪すれば、我らはこれ以上何を求めましょうか!迷って黙すようであれば、それからこれを討てばよいのです」と述べると、石虎はこれを思いとどまった。 これより以前の339年4月、成漢配下の李閎は東晋に捕らえられたが、この年に脱走して後趙に亡命してきた。これを知った成漢君主李寿は後趙へ書を送り、李閎返還を請うた。だが、その書には『趙王石君』と書かれていたので、石虎は不快感を示し、どうすべきか群臣に議論させた。中書監王波は「今、李閎は自らの命を賭して『もし蜀漢に反魂する事が出来たならば、宗族を纏め上げ、混同して王化させましょう』と自誓しております。これが言う通りとなれば、一旅の師を煩わせる事無く、梁益を定める事が出来ましょう。仮にこれが駆け引きであったとしても、ただ一夫が逃命したに過ぎず、趙においてどのような損失がありましょう!李寿は既に号を日月(天子)と同じくしており、一方に勢力を築いております。今、制詔してを与えれば、或いは報いてくれるやもしれませんが、戎裔である事を皮肉ってくるかもしれません。ここは書を以ってこれに答え、また併せて挹婁から送られてきた楛矢を贈り、寿に我らが遐荒(遠方の野蛮な地)をも服させる事が出来ると知らせてやるのです」と提案した。石虎はこれを聞き入れ、李閎へ手厚く備物を与えてから帰らせてやった。 李閎が成都に無事帰還すると、李寿は境内に誇示する為に「羯使が来庭し、楛矢を貢いできたぞ」と触れ回った。これを石虎は激怒し、王波を降格して白衣を以って中書監の職務に当たらせた。ただその一方、時期は不明だが、晋書によると李寿は後趙に小藩して建寧・上庸・漢固・巴征・梓潼の5郡を明け渡したとある。 341年10月、匈奴鉄弗部の大人劉務桓が後趙に朝貢して来た。石虎は劉務桓を平北将軍・左賢王に任じた。
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