前涼の要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/12 05:04 UTC 版)
347年4月、後趙の麻秋が8万の軍勢を引き連れて枹罕を包囲すると、寧戎校尉常據らは奮戦してこれを阻んだ。石虎は将軍劉渾に兵2万を与えて麻秋に加勢させ、さらに征西将軍石寧に并州・司州の兵2万を与えて麻秋の後詰めとした。この事態に、前涼の将軍宋秦は2万戸の領民を率いて後趙へ降伏した。 張重華は謝艾を使持節・軍師将軍に任じ、3万の兵を与えて臨河まで進軍させた。謝艾は車に乗って白服を着ると、太鼓を鳴らしながら進軍した。これを見た麻秋は「謝艾は年少の書生の分際でありながら、あのような格好で現れるとは。我を愚弄するか。」と激怒し、3千の精鋭兵に命じて突撃させた。これに謝艾の側近達は大いに慌て、ある者は謝艾へ対して乗馬を勧めたが、謝艾はこれを断り車から降りると、椅子を持ってこさせた。そして、それに座ってあちこちを指さしながら合図をすると、後趙兵は伏兵を恐れて攻撃できなくなった。この時、謝艾は将軍張瑁を左南から川沿いに進ませて敵軍の背後へ回り込ませており、敵軍が戸惑っている隙に奇襲を掛けさせた。これにより敵軍は混乱して後退すると、謝艾は勢いに乗って進撃し、大いに破った。これにより杜勲・汲魚の2将を討ち取り、1万3千の敵兵を捕らえた。麻秋は単騎で大夏まで逃げ帰った。 功績により太府左長史に昇進し、福禄県伯に進封された。さらに、5千戸の領地を与えられ、絹布八千匹を下賜された。 5月、麻秋らが再び襲来し、12万の軍勢で河南へ駐屯した。劉寧・王擢は晋興・広武・武街を攻略し、曲柳まで進撃した。張重華は将軍牛旋に迎撃を命じたが、牛旋は枹罕まで退いて交戦しようとしなかったので、姑臧の民は大いに動揺した。張重華が自ら出征して迎撃しようとすると、謝艾はこれを堅く諫めた。さらに、索遐は「賊衆は甚だ盛んであり、幾度も京畿に迫っております。君というものは一国の鎮であり、自ら動くべきではなりません。左長史謝艾は文武に素質があり、国家の方召(重臣)でありますから、これに委ねる事を推轂致します。殿下は中にあって鎮をなし、策略を授けたならば、小賊など平らげることができるでしょう」と述べた。張重華はこれを容れ、謝艾を使持節・都督征討諸軍事・行衛将軍に、索遐を軍正将軍に任じ、2万の軍勢を与えて敵軍を防がせた。謝艾らは出撃すると敵軍の侵攻を阻み、その間に別将の楊康が沙阜において劉寧を撃破し、金城まで退却させた。 7月、石虎は孫伏都・劉渾に2万の兵を与え、麻秋の援軍に向かわせた。彼等は進軍して河を渡ると、金城の北へ長最城を築いた。謝艾は軍を整えて迎撃の準備をしていると、出陣儀式の最中に風が吹き、軍旗が全て南を指した。これを見た索遐は「風が号令を掛けた。今、全ての旌旗は敵を指している。これこそ天の意志だ」 と述べた。謝艾は神鳥に陣を布くと、王擢はこれを迎え撃った。謝艾はこれを打ち破り、敵軍を河南まで押し返した。 8月、謝艾はさらに進撃して麻秋と交戦し、これを撃破した。遂に麻秋は金城まで撤退した。 この報告を受け、石虎は「我は一軍の兵だけで九州を平定した。それが今、九州の総力を挙げても枹罕ごときを落とせない。前涼に有能な将軍が居る限り、手が出せん。」と大いに嘆いた。 その後、斯骨真が1万を超える集落を従えて反乱を起こすと、謝艾は姑臧へ帰還する途上であったが、すぐさま討伐に向かった。そして尽くを平定すると、千人余りを斬首して2千8百の兵を捕えた。また、牛・羊併せて10万頭余りを奪った。
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