前涼との修好とは? わかりやすく解説

前涼との修好

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 14:56 UTC 版)

李雄 (成漢)」の記事における「前涼との修好」の解説

326年張駿使者派遣し李雄向けて尊号捨てて東晋に称藩するよう勧めた李雄返書送り「我は以前士大夫推されこのような身分となったが、帝王の心など持ち合わせてはいない。進んでは晋室の元功の臣となり、退いては共に守藩の将となり、賊を討伐して帝宇を広げたい願っている。だが、晋室は次第衰えて徳声も振るわず、東に移って幾年月が過ぎてしまった。今、貴殿からの書を受け取り、この思い隠しておく事も無くなった遠く楚漢において義帝尊崇する事を知り春秋の義においてこれより重要な事は無いであろう」と語ると、張駿はこの言葉重んじてこれ以降使者往来させた。巴郡琅邪王司馬睿の軍が到来すると、李雄恐れる事もなく「我はかねてより石勒跋扈しているのを憂慮しており、遂に琅邪王司馬睿)の勢力侵犯されると憂い大きくなった。しかし、こうして図らずも兵を挙げる事が出来た聞き喜ばしく思うものである」と語った李雄はしばしこのような事を優雅に語っていたという。この後李雄中原の地が乱れているのを見て、しばしば東晋朝貢して穆帝天下分けよう持ち掛けた。 これより以前、秦領有していた張駿配下建康派遣して表を奉ろうとし、李雄へ蜀の地を通過する許可求めたが、李雄は許さなかった。張駿はまた治中従事張淳を成漢派遣し、藩と称して道の通過願った李雄大い喜び「貴主の英名は広く世に響いており、険固な地に拠って強兵有しているのに、どうして帝と称さないのかね」と問うと、張淳は「寡君代々忠良貫いており、未だ天下の恥をいで衆人苦しみ解放できておりません。故に太陽が沈むまで食事忘れ武具にして朝を待っているのです。琅邪王江東の地において中興をなしたからには万里遠方からでもこれを奉戴して桓・文のごとき事業をなさんとしているのです。自らその地位を取るなどもってのほかです」と答えた李雄恥じ入った様子見せて我が祖父も父も共に晋臣であったが、以前六郡の民と共にこの地に避難し盟約した者の推すところとなって今日至ったのだ。もし琅邪王が大晋を中夏の地に中興することができれば、我も衆を率いてこれを助けであろう」と答え通過許可した。張淳の持参した表は建康へと伝わり成帝はこれを喜んだ

※この「前涼との修好」の解説は、「李雄 (成漢)」の解説の一部です。
「前涼との修好」を含む「李雄 (成漢)」の記事については、「李雄 (成漢)」の概要を参照ください。

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