前涼滅亡
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376年7月、苻堅は武衛将軍苟萇・左将軍毛盛・中書令梁熙・歩兵校尉姚萇らに13万の兵を与え、前秦征伐を命じた。さらに、秦州刺史苟池・河州刺史李弁・涼州刺史王統に命じ、三州の兵をもって後続とした。また、閻負・梁殊を使者として前涼に派遣し、張天錫へ長安に入朝するよう勧めさせた。 使者たちが到来すると、張天錫は百官に対して「今入朝すれば、必ずや帰れぬであろう。従わなければ、秦軍は必ずや侵攻してくるであろう。どうするべきであろうか」と尋ねると、禁中録事の席仂は三国時代の呉の孫権の故事を引用して、人質と賄賂を贈って退却を求める事を勧めた。しかし他の群臣はこの提案を弱腰だとして非難し、領内の兵を総動員しての徹底抗戦を主張した。これを聞いた張天錫は衣を翻すと「孤の計は決まった!降伏を語る者は斬る!」と大声で叫んだ。そして前秦の使者であった閻負・梁殊に対し「君たちは生きて帰りたいかね、死して帰りたいかね」と脅したが、梁殊は屈服せずに語気を強めて言い返した。このため張天錫は二人を軍門に縛り付ると、兵士達に命じて射殺させた。 8月、前秦軍の侵攻が本格化し、複数の城が陥落すると、張天錫は自らも5万の兵を率いて出陣した。安西将軍宋皓は「臣は昼に人事を見、夜に天文を見ましたが、秦軍には敵いません。これを降すことができません」と張天錫を諫めたが、張天錫は怒って宋皓を宣威護軍に降格した。前涼は龍驤将軍馬建を派遣して迎え撃たせたが、馬建は前秦軍の先鋒であった姚萇に大敗を喫し、前秦へと降伏してしまった。これにより他の前涼兵は逃散し、さらに他の将軍らも戦死していった。張天錫は自ら姑臧を出て出撃したが、留守となった城内で反乱が起こったため、やむなく数千騎を率いて姑臧へ撤退した。前秦軍が姑臧まで進軍すると、窮した張天錫は左長史馬芮の勧めに応じ、降伏を決断した。そして自らを縛り上げて棺を伴い、素車・白馬を用い、苟萇の軍門に降った。苟萇はその戒めを解いて棺材を焼き払うと、張天錫を長安へ送致した。これにより、涼州の郡県はみな前秦へ降伏した。こうして前涼は滅亡した。張天錫の即位から13年の出来事であった。
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