前涼滅亡とは? わかりやすく解説

前涼滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 08:52 UTC 版)

張天錫」の記事における「前涼滅亡」の解説

376年7月苻堅武衛将軍苟萇左将軍毛盛中書令梁熙歩兵校尉姚萇らに13の兵を与え前秦征伐命じた。さらに、秦州刺史苟池・河州刺史弁・涼州刺史王統命じ三州の兵をもって後続とした。また、閻負・殊を使者として前涼派遣し張天錫長安入朝するよう勧めさせた。 使者たちが到来すると、張天錫百官に対して「今入朝すれば、必ずや帰れであろう。従わなければ秦軍必ずや侵攻してくるであろうどうするべきであろうか」と尋ねると、禁中録事の席仂は三国時代の呉の孫権故事引用して人質賄賂贈って退却求める事を勧めた。しかし他の群臣はこの提案弱腰だとして非難し領内の兵を総動員して徹底抗戦主張した。これを聞いた張天錫は衣を翻すと「孤の計は決まった降伏を語る者は斬る!」と大声叫んだ。そして前秦使者であった閻負・殊に対し君たち生きて帰りたいかね、死して帰りたいかね」と脅したが、殊は屈服せずに語気強めて言い返したこのため張天錫二人軍門縛り付ると、兵士達命じて射殺させた。 8月前秦軍の侵攻本格化し、複数の城が陥落すると、張天錫は自らも5万の兵を率いて出陣した安西将軍宋皓は「臣は昼に人事を見、夜に天文見ましたが、秦軍には敵いません。これを降すことができません」と張天錫諫めたが、張天錫怒って宋皓を宣威護軍降格した前涼龍驤将軍馬建を派遣して迎え撃たせたが、馬建は前秦軍の先鋒であった姚萇大敗喫し前秦へと降伏してしまった。これにより他の前涼兵は逃散し、さらに他の将軍らも戦死していった。張天錫は自ら姑臧出て出撃したが、留守となった城内反乱起こったため、やむなく数千騎を率いて姑臧撤退した前秦軍が姑臧まで進軍すると、窮した張天錫は左長史馬芮の勧め応じ降伏決断した。そして自らを縛り上げて伴い素車白馬用い苟萇軍門に降った苟萇はその戒め解いて材を焼き払うと、張天錫長安送致した。これにより、涼州の郡県はみな前秦降伏した。こうして前涼滅亡した張天錫即位から13年出来事であった

※この「前涼滅亡」の解説は、「張天錫」の解説の一部です。
「前涼滅亡」を含む「張天錫」の記事については、「張天錫」の概要を参照ください。

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