前漢での事跡
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姓名孫建 時代前漢時代 - 新代 生没年生年不詳 - 15年(天鳳2年) 字・別号子夏(字) 出身地〔不詳〕 職官護軍都尉〔前漢〕→執金吾〔前漢〕→右将軍〔前漢〕→左将軍兼光禄勲〔前漢〕→西域都護〔前漢〕→強弩将軍〔前漢〕→軽車将軍〔前漢〕→奮武将軍〔前漢〕→立国将軍〔新〕 爵位・号等成武侯〔前漢〕→成新公〔新〕 陣営・所属等哀帝→平帝→孺子嬰→王莽 家族・一族〔不詳〕 『漢書』で王莽の「爪牙」(腹心の武人の意)と記載されている武将である。しかし、単なる王莽個人の配下にはとどまらず、前漢末期から新代にかけて、王朝を支える武の重鎮として戦績を残した。 元寿2年(紀元前1年)1月、護軍都尉孫建は執金吾に就任し、同年3月に異動させられる。同年6月、孫建は右将軍に就任し、元始2年(2年)には左将軍兼光禄勲に就任する。 元始年間に、烏孫国の昆彌(王に相当)を支援するため、西域都護孫建は、烏孫国の有力者で昆彌に反逆していた卑爰疐を襲撃して殺害した。元始5年(5年)閏月、孫建は、強弩将軍に在った際の「折衝之威」を評価され、成武侯に封じられた。 居摂年間に、王莽が遊侠・豪傑の士をことごとく殺害しようとし、西河の漕中叔という人物を指名手配したものの逮捕できずにいた。王莽は、漕中叔が孫建と親しかったことから、孫建を疑い、直に詰問を行う。しかし孫建は「漕中叔を殺すならば、代わりに私を殺してください」と言ったため、王莽もこれ以上問い詰めることができず、結局、漕中叔も発見できなかった。 居摂2年(7年)9月、東郡太守翟義が王莽打倒に蜂起すると、軽車将軍・成武侯となっていた孫建は奮武将軍に任命され、虎牙将軍王邑・強弩将軍王駿ら他の6人の将軍と共に翟義討伐に向かった。同年12月、孫建・王邑らは、圉(陳留郡)で翟義軍を殲滅し、翟義を捕えて処刑した。
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前漢での事跡
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姓名王舜 時代前漢時代 - 新代 生没年生年不詳 - 16年(天鳳3年) 字・別号〔不詳〕 本貫・出身地等冀州魏郡元城県委粟里 職官駙馬都尉〔前漢〕→太僕〔前漢〕→車騎将軍〔前漢〕→大司馬・車騎将軍〔前漢〕→太保・車騎将軍〔前漢〕→太傅・左輔・驃騎将軍〔前漢〕→太師〔新〕 爵位・号等安陽侯〔前漢〕→安新公〔新〕 陣営・所属等成帝→哀帝→平帝→孺子嬰→王莽 家族・一族父:王音 子:王延 王匡一族:王莽〔又従兄〕 王邑〔又従兄弟〕王渉〔又従兄弟〕 王邑とともに、王莽の親族にして腹心として活動した人物である。 永始2年(紀元前15年)、父の王音の死にともない、安陽侯を継承する。綏和元年(紀元前8年)、王舜は駙馬都尉から太僕に遷るが、綏和2年(紀元前7年)、病のために免職された。元寿2年(紀元前1年)、車騎将軍に遷り、同年7月、皇太后王政君・王莽らの命により、王舜は中山王を出迎え、平帝として擁立している。その後、時期は不明ながら、王舜は大司馬・車騎将軍に昇格した。元始元年(1年)、太保・車騎将軍に遷り、太傅王莽・太師孔光・少傅甄豊とともに四保となった。その後、やはり時期は不明だが、驃騎将軍に遷っている。 居摂元年(6年)3月、王舜は太傅・左輔に任命され(驃騎将軍と兼任)、孺子嬰を補佐した。居摂2年(7年)9月の東郡太守翟義の反乱の際には、甄豊とともに夜間に宮中を巡回し、王莽を護衛した。 居摂3年(8年)、王舜は、王政君に伝国璽を王莽に引き渡すように求める使者となった。要求を聞いた王政君は激怒し、王舜も内心は悲嘆を感じていたが、それでも王舜は王政君を説得して、彼女が投げつけた伝国璽を受け取り、王莽に献上した。
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前漢での事跡
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姓名王邑 時代前漢 - 新 生没年? - 23年(地皇4年) 字・別号公子 本貫・出身地等冀州魏郡元城県委粟里 職官侍中〔前漢〕→西河属国都尉〔前漢〕→光禄勲〔前漢〕→虎牙将軍〔前漢〕→歩兵将軍〔前漢〕→大司空〔新〕(後に三公職務兼任)→大司馬〔新〕 爵位・号等成都侯〔前漢〕→隆新公〔新〕 陣営・所属等哀帝→平帝→孺子嬰→王莽 家族・一族父:王商 兄:王況 弟:王奇 子:王睦一族:王莽〔従兄〕 王舜〔又従兄弟〕王渉〔従兄弟〕 王邑は、兄の王況が罪があって成都侯を剥奪された後、成都侯を受け継いだ。哀帝の時代に侍中を務めていた。元寿元年(紀元前2年)、野に下っていた王莽が哀帝により長安に呼び戻された際に、王邑は太皇太后王政君の意思と偽り、王莽を特進としてこれに宮廷での官職を授けるよう進言した。しかしまもなく、哀帝が王政君にこのことを請うたため、この偽りは発覚してしまう。王政君が哀帝に謝罪し、また、哀帝も王邑が王政君の縁故であることを慮ったため、王邑の罪は減免され、西河属国都尉への降格と封戸千戸の削減に留められた。 居摂2年(7年)9月、東郡太守翟義が王莽打倒に蜂起すると、光禄勲・成都侯となっていた王邑は、王莽から虎牙将軍に任命され、奮武将軍孫建ら他の6人の将軍と共に翟義討伐に向かった。同年12月、孫建・王邑らは、圉で翟義軍を殲滅し、居摂3年(8年)春に王邑らの軍は長安へ引き返し、翟義に呼応して槐里で蜂起した趙明、霍鴻を鎮圧した。その後、時期は不明だが、王邑は歩兵将軍に移っている。
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