前漢の杜県
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 07:37 UTC 版)
秦が滅び、項羽が覇権をとると、秦の故地は三分され、杜県はその中の塞国に属し、司馬欣がその王になった。翌高祖2年(前205年)、漢の劉邦が秦に入って司馬欣を倒し、渭南郡を置いた。 続く楚漢戦争の間、杜県の樊郷と平郷が、それぞれ漢の武将樊噲と灌嬰に食邑として与えられた。漢が天下を統一すると、両人は別の土地に封じられた。 前漢では都が渭水の南の長安にあったので、杜県と都の距離はさらに近くなった。 高祖9年(前198年)に渭南郡は廃止になり、秦の時代と同じく内史の管轄下に置かれた。景帝前2年(前155年)に内史が左右に分割されると、杜県は右内史の下に入った。さらに太初元年(紀元前104年)に右内史が分割され、杜県は京兆尹の下に置かれた。 宣帝は即位前の青年期に杜県の下杜にいることが多く、即位後、杜に自らの陵墓を定めた。陵墓は杜陵と名付けられ、県は杜陵県と改称した。元康元年(前65年)のことである。
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