司馬元顕
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司馬 元顕(しば げんけん、太元7年(382年)- 元興元年3月5日(402年4月22日))は、中国東晋の皇族。東晋の第9代皇帝孝武帝の実弟の司馬道子の子。子は次男の司馬彦璋・五男の司馬法興ら六人。
生涯
父が酒色に溺れて暗愚だったのに対し、聡明で意気も旺盛で人心を読む事にも長けていたといわれる[1]。父の司馬道子が隆安2年(398年)に王恭の乱で自暴自棄になって酒に溺れると、実権を譲られた元顕は王恭配下の劉牢之に北府軍総帥の地位を約束させて寝返らせ、王恭を斬殺した[1]。続いて王恭と結託して挙兵していた殷仲堪に対しても配下の桓玄に西府軍総帥を約束する事で寝返らせ、殷仲堪を自殺させた[2]。
隆安3年(399年)に司馬道子が酒色が過ぎて体調を崩すと、元顕は人望も能力も無い父を廃して自らが全権を握るために安帝に願い出て父が兼務していた司徒・揚州刺史の職を解任させて自らがそれに就任し、全権を握って私腹を肥やし、その私財は朝廷をも凌ぐにいたった[3]。この年に孫恩の乱が起きているが、これは元顕の所領である会稽において元顕が荘園の農奴を酷使し、さらに兵役にあてた事が原因だった[3]。
孫恩の叔父の孫泰は、養生の術に長け、司馬元顕も秘術を求めてしばしば会っていた。孫泰は謀反の企みを告発されて処刑されたが、結局は孫恩が反乱を起こした[4]。
元顕には独力で鎮圧はできず、北府軍の劉牢之に命じて鎮圧させている[5]。この反乱で朝廷の軍事力が無力化している事を見た西府軍の桓玄は、孫恩の反乱の際に東上しようとして元顕に拒まれていた事を恨みに思っていた事もあり、挙兵して東上した[6]。
元顕は武昌郡太守から桓玄は人心を失っているから兵を出して討つのがよいと勧められていたため、北府軍の劉牢之に出兵を命じたが応じなかったため、自ら水軍を編成して桓玄の罪状を挙げて討とうとした[7]。しかし元顕の軍は桓玄による輸送封鎖の兵糧攻めで財政が枯渇し、用意できた軍船すら出陣できない状態だった[7]。その上、劉牢之が桓玄について寝返ったため、万策尽きた元顕は桓玄の西府軍が建康に入城すると捕縛され、詔により六人の子と共に斬殺された[8][9]。
父の司馬道子もすぐに毒殺され[8][9]、以後東晋の皇族は権力を失った。
桓玄の敗死後、臨川王・司馬宝の子である司馬脩之が司馬道子の家を継いだ。義熙年間(405-418)、司馬秀熙という者が司馬元顕の遺児と名乗り出た。王太后(簡文帝の正室。司馬元顕にとっては義理の祖母)は信用して司馬脩之を実家に帰らせた。しかし、劉裕は司馬秀熙の出自を疑い、調査の結果、正体は滕羨の奴隷の勺薬であるとして公開処刑した。家は再び司馬脩之が継いだが、王太后は劉裕の調査結果を信じず、司馬秀熙のために涙した[10]。
415年、司馬休之が反劉裕の兵を挙げると、上奏文で、劉裕は司馬元顕の遺児で五男の司馬法興を、無実の罪で殺害したと糾弾した[11]。司馬法興が司馬秀熙と同一人物か、別人であるかは不明である。
脚注
- ^ a b 駒田 & 常石 1997, p. 136.
- ^ 駒田 & 常石 1997, p. 137.
- ^ a b 駒田 & 常石 1997, p. 139.
- ^ 『晋書』孫恩伝
- ^ 駒田 & 常石 1997, p. 141.
- ^ 駒田 & 常石 1997, p. 143.
- ^ a b 駒田 & 常石 1997, p. 144.
- ^ a b 駒田 & 常石 1997, p. 145.
- ^ a b 川本 2005, p. 134.
- ^ 『晋書』司馬道子伝
- ^ 『宋書』武帝紀中
参考文献
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