東晋に従属
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 12:53 UTC 版)
317年3月、江南に勢力を構えていた琅邪王司馬睿が晋王を名乗った。司馬睿は承制(皇帝に代わって諸侯や守相を任命する権限)を行い、遼西へも使者を派遣して慕容廆を仮節・散騎常侍・都督遼左雑夷流人諸軍事・龍驤将軍・大単于に任じ、昌黎公に封じる旨を伝えたが、慕容廆は当初司馬睿の事を軽んじていたので、固辞して受けなかった。だが征虜将軍の魯昌は、司馬睿を正式に皇帝に奉じた上で官位を受け取る事で、慕容廆の統括権限の正当性を強化するよう進言して。また在野の士である高詡という人物も、尊皇の姿勢こそが覇王の資格であるとして同じく東晋への帰順を勧めた。慕容廆はこれらに従って長史王済を海路より建康へ派遣すると共に、高詡を取り立てて郎中令に任じた。 318年3月、司馬睿は皇帝に即位する(東晋の元帝)と、謁者陶遼を使者として再び慕容廆の下へ派遣し、以前授けた官爵を受けるよう述べた。慕容廆は官職については受けたが、昌黎公の爵位については固辞した。こうして東晋の後ろ盾を得た慕容廆は、游邃を龍驤長史に、劉翔を主薄に任じ、彼らに府朝(地方政府)としての儀礼や法律を制定させた。また裴嶷は「遼西・遼東の諸部族は各々軍備こそ擁してはいますが、いずれも知略に欠けた者達ばかりですので、これらはいずれ皆、我が慕容部へと併合していくのがよろしいでしょう」と進言すると、慕容廆は「このような壮大な計画は私には考えもつかなかった。君は朝廷においては名の知られた名士なのに、私を僻遠の出身と侮らずに教授してくれる。天は私に国を興させるため、君を呼び寄せてくれたのであろう」と喜び、裴嶷を改めて長史に任じ、軍務と国政の謀略については彼に一任した。これを受け、裴嶷は遼東・遼西に割拠する弱小の部族から順を追って勢力下に引き入れ、少しずつ慕容廆の勢力を拡大させていった。
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