東晋の内部事情
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東晋では大司馬桓温が373年に死去すると、兵権は謝安と桓温の末弟の桓沖に委ねられていた。謝安は前秦の勢力拡大、並びに北方や西方に迫る脅威に対抗するため、兄の謝奕の子すなわち甥の謝玄を将軍に任命し、この謝玄の下で劉牢之らを参謀に登用して精強な北府軍を創設した。 とはいえ、兵力は8万ほどであり、前秦軍の半分にも満たなかった。謝玄は出陣する前に謝安を訪ねて軍略を質問したが、謝安は平素と変わることなく落ち着きはらって「考えはある」とだけ述べて具体的に語ろうとはしなかった。そのため謝玄はやむなく引き下がったが、心配なので使者を派遣して質問しても同じ答えであり、謝安が親族や友人を集めて田舎の別荘で楽しんでいるのを聞くとたまらなくなって再び自ら訪ねたが、謝安は別荘をかけての囲碁の手合わせを所望した。謝安の囲碁の腕は謝玄より下だったが、この日は何故か謝玄は勝てなかったという。 また桓沖が都の守護のために西府軍から3000人の精鋭を割いて派遣してきたが、謝安は西の守りのほうが重要であるとして断った。桓沖は謝安が遊興にふけっているのを聞いて「謝安は廟堂の謀略は持っていようが、戦略にはいかにも素人。大敵が今にも来るというのに、戦の経験のない若者を駆り出して防がせ、自分は呑気に遊んでいる。我々は胡に降参する日が来たらしい」と嘆息した。 史書では謝安がこのような態度をとったのは周囲の朝臣を安堵させ動揺させないためであったとされ、実際に謝安に軍略があったのかどうかに関しては不明とされている。桓沖の援軍を断ったのは、前衛を突破されたら3000の兵力では役に立たず、あえて断ったとされている。
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