東晋の建国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 08:37 UTC 版)
この間、江南にあった司馬睿は愍帝から侍中・左丞相・大都督・陝東諸軍事に任命されていたが、愍帝が降伏すると317年3月に晋王を称して建武と改元した。そして愍帝が殺されると318年3月に皇帝に即位し(元帝)、建康に都して晋を再興した(東晋の成立)。 なお、首都の旧名は建業であったが、愍帝の諱の「鄴」と重なるため、建康と改名されることになった。 元帝は江南における政権確立のため、王導の政治力を借り、また華北から亡命してきた皇族・貴族らの人材を取り入れていくことになるが、これは元帝が即位前に名声を得ておらず、江南の民衆を心服させられなかったことが一因している。ただ元帝・王導らは、政権確立の過程において将軍府の要職を在地の江南人によらず北来の亡命人で独占するという体制をとったために在地の江南豪族の不満を買い、江南随一の豪族周氏により反乱を起こされたりもしている。一方でそもそも江南豪族も決して一枚岩ではなかったため、これらの反乱は鎮圧された。以後、王導の主導の下に東晋政権は確固たる地盤を築いていくことになる。 このような中で忠勇の軍人による北伐、中原快復運動も行なわれ、その中で最も気を吐いたのは奮威将軍・豫州刺史の祖逖であり、祖逖は華北に攻め入ると後趙相手に奮闘して河北の南部を奪取するまでに至ったが、当時の東晋の軍事力不足と元帝の消極政策、さらに内乱などもあり、北伐は最終的には失敗した。
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