東晋に亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 04:39 UTC 版)
5月、後趙の将軍石生が洛陽に駐屯すると、河南の地を大々的に掠奪した。李矩・郭黙はこれに幾度も敗れて食糧難に陥ると、郭黙は再び前趙に降るよう李矩を説得した。進退窮まった李矩は遂に郭黙の計に従う事を決断し、前趙皇帝劉曜の下へ使者を送った。劉曜は従弟の中山王劉岳に1万5千の兵を与えて河陰から孟津へ派遣し、鎮東将軍呼延謨に荊州・司州の兵を与えて崤澠から東へ向かわせ、李矩・郭黙と共に石生を攻めようと謀った。劉岳は洛陽を包囲したが、救援に到来した後趙の中山公石虎に敗れて石梁まで退き下がった。呼延謨もまた石虎に敗れ、戦死した。6月、劉岳は石虎に捕らえられた。郭黙もまた石聡に敗北すると、李矩から離反して単独で密県から陽翟に逃れ、建康へ亡命しようとした。この時、印を解いて参軍殷嶠に授けると「李使君は我を甚だ厚遇してくれたが、今これを棄てて去るのだ。彼には謝罪する言葉も無い。三日経ってからわ我が去った事を伝えるように」と伝えた。李矩は郭黙の裏切りを知って激怒し、郭誦らに詰問の文を書かせて郭黙に送りつけ、また郭誦へ捕らえるように厳命した。郭誦は襄城で追いついたが、郭黙は妻子を棄てて単独で逃走した。無事に建康に到着すると、明帝より征虜将軍に任じられた。 咸和元年(326年)6月、監淮北諸軍事・北中郎将劉遐が没すると、子の劉肇がまだ幼かったので、郭黙は後任の北中郎将・監淮諸北軍事となって仮節を与えられ、劉遐の部曲を領した。劉遐の旧臣李龍らが乱を起こすと、郭黙は右衛将軍趙胤らと共に乱を鎮めた。
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