東晋へ亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 08:48 UTC 版)
6月、後事を託された苻宏であったが、彼は既に守り切る事は不可能であると考えていた。その為、長安を放棄すると、数千騎を率いて母・妻・宗室と共に西の下弁へ逃走した。これにより百官は逃散してしまい、司隷校尉権翼を始め、数百人が後秦へ亡命した。こうして慕容沖は長安へ入城すると、配下の兵に大々的に略奪を命じたので、計り知れないほどの民が虐殺された。 7月、長安から脱出した苻宏は下弁へ逃げたが、南秦州刺史楊璧は入城を拒んだので、方針を変えて武都へ向かった。楊璧の妻は順陽公主(苻堅の娘)であり、彼女は夫を棄てて苻宏に付き従った。苻宏は武都へ到達すると、豪族である強熙の助けを借りて東晋へ亡命した。東晋朝廷は詔を下し、苻宏を江州へ住まわせた。 同時期、五将山へ逃走した苻堅は羌族酋長の姚萇に捕らえられ、やがて殺害された。これを受け、鄴を鎮守していた庶長子の苻丕(苻宏の異母兄)が帝位を継いだが、苻丕もまた386年9月に洛陽を攻撃した際、東晋の将軍馮該に敗れて戦死した。皇太子苻寧・長楽王苻寿らは捕らえられて建康に送られ、その処遇については苻宏に委ねられた。 その後も苻宏は東晋に仕えて役職を歴任し、その官位は輔国将軍にまで至った。
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