中山攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 22:40 UTC 版)
同月、慕容恪を冉魏領の中山へ侵攻させ、慕容評には魯口を守る王午を攻めさせた。 慕容恪が唐城まで到達すると、冉魏の将軍白同と中山郡太守侯龕は共に城を固守した。慕容恪は力押しで中山を攻め降すのは難しいと判断し、慕容彪に中山攻撃を継続させると、自らは南の常山へ向かって九門に駐屯し、周囲の郡県より攻略せんとした。すると、冉魏の趙郡太守李邽は郡を挙げて慕容恪に降伏したので、これを手厚く慰撫した。その後、再び中山へ戻って包囲攻撃を仕掛けると、侯龕もまた城を出て降伏したので、慕容恪は彼を中尉に任じた。さらには中山を攻め落として白同を処断し、冉魏の将帥と豪族数10家を薊へ移住させ、残りの者についてはこれまで通りの生活を保障した。 慕容評もまた南皮まで進むと、迎撃に出てきた王午配下の将軍鄭生を返り討ちにし、その首級を挙げた。 同月、慕容儁は孫興を中山郡太守に任じ、占領して間もない中山を統治させた。孫興は善政を敷いて民を慰撫したので、民心は大いに安定したという。 11月、逄約は勃海へ逃亡すると、部衆をかき集めて再び前燕へ反旗を翻した。前燕の楽陵郡太守賈堅は使者を派遣して利害を説くと、彼の部下は次第に離散していった。進退窮まった逄約は東晋へ亡命した。 同月、上党に拠っていた庫傉官偉が部衆を率いて前燕へ降伏を申しいれた。慕容儁はこれを受け入れ、彼を汶山公に封じた。 12月、丁零族の翟鼠が傘下の諸部族を率いて前燕に帰順すると、慕容儁は彼を帰義王に封じた。 同月、慕容儁は再び龍城に帰還した。 352年、かねてより製作を命じていた指南車が完成した。慕容儁はこれを大いに喜び、慕容皝の廟へ報告した。
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