中山工区本坑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 13:05 UTC 版)
「中山トンネル (上越新幹線)」の記事における「中山工区本坑」の解説
中山工区は1974年(昭和49年)7月から導坑掘削に着手した。この工区は湧水はあまりなかったが、膨圧および高熱に苦しめられることになった。地質は緑色凝灰岩であったが、強度が弱く土被りの大きさによる大きな圧力により掘削した区間の岩肌が次第に膨張してきて坑道が狭くなってきてしまうという問題が発生した。こうした膨圧の強い区間の対応として、サイロット工法が選択された。サイロット工法は側壁導坑先進工法とも呼ばれ、全断面のうち両側の壁になる部分に先に導坑を掘って壁面の覆工を行い、それから天井部分を掘ってアーチを形成し、最後に中央を掘削する方法である。しかしその導坑も膨圧により縮小が発生し、支保工は折り曲げられトロッコを走らせる線路は持ち上がり、通行も困難な状態となってしまった。このため既に掘った区間の掘削作業をやり直す「縫い返し」が必要になり、作業は一進一退となった。1975年(昭和50年)7月に113 km328 m地点までたどりついたが、その後約1年間前進することができなくなった。 また岩盤の膨張に伴い山からの発熱があり、坑内の温度が上昇したことも問題となった。コンクリートの硬化熱もあるため、坑内の温度は摂氏40度を超え、しかも湿度も100パーセントという状況になった。坑内にエアコンを設置してみたが、切羽部分だけ冷却しても、エアコンの排熱が他の部分を温めて灼熱となるため失敗した。また液体空気を散布する方法も試したが、局所的にしか役に立たず、霧が発生して作業に支障をきたして失敗した。結局坑内に氷柱をおき、作業員は水を浴びながら作業を続けることになった。しかし特に冬期には、坑内と坑外の気温差で体調を崩す作業員が続出した。 側壁導坑の膨圧対策として、1976年(昭和51年)5月からロックボルトと可縮支保工の試験施工を開始した。ロックボルトは、トンネル周辺の岩に2 - 3 mのボルトを打ち込んで人工的に岩の強度を強化しようというものである。一方可縮支保工は、周囲の岩盤を支えている柱(支保工)が圧力で座屈するのを避けるために、支保工の柱に可縮継手を入れて小さくできるようにしたものである。これにより、掘削後膨張が止まるまで1年ほどかかっていたのが、80日程度に短縮され、またその膨張量も抑えられて効果を上げることができた。 この成果を基に、新オーストリアトンネル工法 (NATM) を導入することになった。NATMでは、ロックボルトに加えて表面に吹付コンクリートを施工することで、さらにうまく膨圧に対処することができる。NATMは日本では中山トンネルにおいて初めて施工された。サイロット工法における導坑においても吹付コンクリートを併用することが検討されたが、温度が高いことや換気に問題があること、立坑の輸送能力の制約などから見送られている。すでに掘削を終えていた名胡桃工区側から、1977年(昭和52年)3月に断面90平方メートルのショートベンチ工法(断面を2段または3段に分割して順次掘削していく工法)でNATMの使用を開始した。これは成果を上げ、平均月進65 mを達成して延長800 mを施工し、中山工区と名胡桃工区の間が1977年(昭和52年)10月に貫通した。この日本初のNATM導入に対して、「強膨張性地山における吹付コンクリートとロックボルト併用を主体とするトンネル工法の設計・施工」という名目で、日本鉄道建設公団東京新幹線建設局および熊谷組に対して昭和53年度土木学会賞技術賞が与えられている。 一方中山立坑より大宮方では、四方木・高山の両工区の工事が難航していたこともあり、工区割の変更が行われて4回に渡る追加発注が行われ、当初の2,800 mの工区長に1,800 mが追加されて4,600 mとなった。1981年(昭和56年)12月に中山工区の工事が完成した。
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