洛陽を攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/29 06:42 UTC 版)
356年5月、許昌を出発し、周成が割拠する洛陽へ攻め入った。7月、攻撃開始から1か月以上経過したが、未だ攻略出来ずにいたので、長史王亮は「明公の英略は世を蓋い、その兵は強く、民もまた集っております。今、堅城の下で兵を屯しておりますが、気力は使い果たしてその威は挫かれております。これでは他の寇に乗じられるやもしれません。これこそ危亡の道です。一旦河北に戻り、遠略を図るべきかと」と諌めたが、姚襄は「洛陽は小とはいえども、山河により四塞の固を備え、用武の地でもある。我はまず洛陽に拠り、然る後に大業を開建するつもりなのだ」と答え、従わなかった。間もなくして王亮はこの世を去った。姚襄は甚だ悲しんで「天は我に大事を成させないつもりであろうか。王亮が我を捨て去ってしまった!」と慟哭した。 東晋の征西大将軍桓温は江陵から姚襄討伐の兵を挙げ、洛陽へ迫った。8月、桓温が伊水の上流に到達すると、姚襄は洛陽の包囲を解いて桓温に備え、精鋭を伊水の北にある林の中に隠した。さらに、使者を派遣すると桓温へ「自ら王師を率いて来られたからには、この襄は身を奉じて命に帰す所存です。三軍に少し後退するよう命じて頂ければ、道左に拝伏しましょう」と申し入れた。しかし桓温は「我は自ら中原を開復し、山陵を展敬しており、君のことなどに関心はない。訪ねてきたければ、近くにいるのだからすぐ会うことができよう。どうして人を煩わせようか!」と答え、取り合わなかった。姚襄は伊水を挟んで桓温を迎え撃ったが、桓温は陣形を整えて自ら武具を着けて督戦し、姚襄はこれに大敗を喫して死者は数千に及んだ。配下の張駿・楊凝らはみな桓温により捕らえられ、尋陽へと送られた。姚襄は配下の数千騎を伴って、洛陽の北邙山に逃亡した。その夜、民の中で妻子を棄てて姚襄に付き従った者は五千人余りに上り、さらに陽郷に移ると、これに赴いた者は四千戸余りを数えた。姚襄が西へ逃亡すると、桓温はこれを追撃したが、果たせなかった。 その後、平陽に至ると、前秦の并州刺史尹赤は再び兵を率いて姚襄に帰順した。こうして姚襄は平陽を支配下に入れ、襄陵に拠った。 前秦の大将軍・冀州牧張平が平陽を攻めると、姚襄はこれに敗れたが、張平と義兄弟の契りを交わし、各々兵を収めた。
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