洛陽失陥
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 00:24 UTC 版)
慕容暐は以前、虎牢以西の地を前秦へ割譲する約束をしたが、東晋軍が退却するとその土地を惜しむようになった。そのため、前秦へ使者を派遣して「(割譲の約束は)使者の失言です。国を保ち家を保つ者として、災害の時に助け合うのは、当然の理でしょう」と告げた。苻堅はこれに激怒し、輔国将軍王猛・建威将軍梁成・洛州刺史鄧羌に3万の兵を与え、前燕へ侵攻させた。12月、前秦軍は洛州刺史慕容筑が守る洛陽に攻め込んだ。 370年1月、慕容暐は衛大将軍慕容臧に精鋭10万を与えて洛陽救援に向かわせた。王猛は慕容筑へ書を送り、鄴からの救援軍が来る事はないと脅しをかけると、戦意喪失した慕容筑は降伏を申し出たのでこれを受け入れた。慕容臧が精鋭10万を従えて洛陽救援に向かうと、彼は新楽に城を築いて石門において前秦兵を撃破し、将軍楊猛を捕らえた。その後、滎陽まで軍を進めた。この動きを察知した王猛は梁成らに迎撃を命じ、精鋭1万を与えて急行させた。慕容臧は王猛軍の到来を予期していなかったので、備えをしておらず石門で大敗を喫し、死者は1万を数えた。その後、両軍は石門で対峙したが、慕容臧は梁成軍にも敗北を喫し、3千人余りが打ち取られ、将軍楊璩が捕らえられた。ここで王猛は軍を還すと、鄧羌に洛陽の金墉城を統治させ、輔国司馬桓寅を弘農郡太守に任じて陝城を守らせた。 2月、揚州刺史袁真が亡くなった。東晋の陳郡太守朱輔は袁真の子である袁瑾を建威将軍・豫州刺史として寿春を統治させた。また、子の朱乾と司馬爨亮を前燕へ使者として派遣し、改めて帰順の意思を告げると共に救援を要請した。慕容暐はこれに応じ、袁瑾の揚州刺史の地位を追認し、朱輔を荊州刺史に任じ、援軍を送った。4月、桓温は督護竺瑶・喬陽之に水軍を与え、袁瑾軍を攻撃した。慕容暐が派遣した援軍は武丘で竺瑶らの水軍と遭遇したが、これに敗れ去った。 桓温が2万を率いて広陵より寿春へ到達すると、袁瑾は城を固守して籠城を図った。桓温は周囲を陣営で広く取り囲み、包囲を行った。
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