洛陽攻略戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:56 UTC 版)
順調な作戦推移を見た日本の北支那方面軍司令部(司令官:岡村寧次大将)は、第12軍に洛陽の攻略を命じた。第12軍の内山中将は中国側の野戦部隊追撃を重視したため、5月19日に第63師団と独立歩兵第9旅団のみでの攻略を命じたが、容易には攻略できなかった。その後、戦車師団などを含む第12軍主力による攻撃に切り替えられ、5月23日~5月25日の戦闘で洛陽を占領した。洛陽の戦闘で中国軍は、第36集団軍司令官の李家钰(zh)中将が戦死した。 これをもって、前半の京漢作戦は完了した。京漢鉄道は開通し、日本軍の記録によれば中国軍の損害は遺棄死体32,390体、捕虜7,800人に及んだ。北支那方面軍司令官の岡村大将は、堕落していた占領軍の規律を回復させ、「焼くな、殺すな、犯すな」の三悪追放令を発した。この結果、例えば第110師団の占領地域では夜間でも民間人が安心して外出可能であるほどまでに治安が向上し、終戦後の復員の際にも中国側担当者の胡宗南将軍により第110師団は優遇された。
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