洛陽を護衛とは? わかりやすく解説

洛陽を護衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:10 UTC 版)

張軌」の記事における「洛陽を護衛」の解説

308年4月、趙・魏の地で反乱起こしていた王弥洛陽へ侵攻開始すると、張軌は督護北宮純張纂・馬魴・陰濬らに洛陽救援命じた5月王弥洛陽へ到達し、津陽門に駐屯した。北宮純勇士100余り募って敵陣奇襲し大い破って王弥退却させた。北宮純らはさらに河東進出していた漢(後の前趙)の劉聡軍を破った懐帝張軌忠誠称賛して西平郡公に進封する詔を下したが、張軌はこれを固辞した309年10月、漢の劉聡王弥らが精鋭5万率いて洛陽へ襲来すると、張軌は再び北宮純救援命じた劉聡西明門に迫ると、北宮純宵闇乗じて勇士千人余り率いて敵陣奇襲仕掛けた敵陣大混乱に陥り、北宮純戦乱最中に征将軍呼延顥を斬り殺し劉聡撃退させた。洛陽では「涼州大馬、横行天下涼州鴟苕、寇賊消、鴟苕翩翩、怖殺人」という歌謡作られ、彼らは救国英雄として称えられた。 また張軌は治中張閬を洛陽へ派遣し、5千の義兵州内秀才孝廉な者、租税帳簿武具、その他涼州物資送り届けたまた、官吏命じ涼州成立以降記録細かに調べさせ、高潔・純粋であり富貴に拘らず世俗から離れて節操を保つ者、高才博学にして経史著述する者、危機臨んで我が身顧みず国家君主への義に殉じた者、忠心から諫言を行うも処罰されてしまった者、使節として臨機応変交渉して災禍減らした者、武勇智略により乱を鎮めた者、主君誤った方へ導いて忠賢な者を陥れた者等、全て詳しく州府まで文書報告させた。州郡の父老はみなこれを互いに慶賀合ったという。 310年11月洛陽より使者到来し張軌鎮西将軍都督隴右諸軍事に任じられ、覇城侯に封じられた。また、光禄卿傅祗・太常摯虞は張軌の下へ信書送り洛陽物資食糧の不足訴えた。これを受け、張軌即座に参軍勲を洛陽へ派遣し朝廷に馬5百匹・布3匹を献上した311年5月朝廷張軌車騎大将軍任じ開府儀同三司特権与える事を決めた。だが、その文書張軌に届く前に、漢の軍勢洛陽迫ったとの報があり、張軌北宮純・張斐・郭敷らに精鋭5千を与えて洛陽救援命じたたが、既に晋朝主力軍は壊滅しており、もはや抗う力は残っていなかった。漢軍の攻勢前に洛陽あえなく陥落し懐帝始め皇室・官吏捕虜となってしまった。北宮純はかろうじて長安逃れたものの、張斐らは捕らえられ殺害された。

※この「洛陽を護衛」の解説は、「張軌」の解説の一部です。
「洛陽を護衛」を含む「張軌」の記事については、「張軌」の概要を参照ください。

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