洛陽を護衛
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308年4月、趙・魏の地で反乱を起こしていた王弥が洛陽へ侵攻を開始すると、張軌は督護北宮純・張纂・馬魴・陰濬らに洛陽救援を命じた。5月、王弥が洛陽へ到達し、津陽門に駐屯した。北宮純は勇士100人余りを募って敵陣を奇襲し、大いに破って王弥を退却させた。北宮純らはさらに河東に進出していた漢(後の前趙)の劉聡軍を破った。 懐帝は張軌の忠誠を称賛して西平郡公に進封する詔を下したが、張軌はこれを固辞した。 309年10月、漢の劉聡・王弥らが精鋭5万を率いて洛陽へ襲来すると、張軌は再び北宮純に救援を命じた。劉聡が西明門に迫ると、北宮純は宵闇に乗じて勇士千人余りを率いて敵陣へ奇襲を仕掛けた。敵陣は大混乱に陥り、北宮純は戦乱の最中に征虜将軍呼延顥を斬り殺し、劉聡を撃退させた。洛陽では「涼州大馬、横行天下。涼州鴟苕、寇賊消、鴟苕翩翩、怖殺人」という歌謡が作られ、彼らは救国の英雄として称えられた。 また張軌は治中張閬を洛陽へ派遣し、5千の義兵、州内の秀才で孝廉な者、租税の帳簿、武具、その他涼州の物資を送り届けた。 また、官吏に命じ、涼州成立以降の記録を細かに調べさせ、高潔・純粋であり富貴に拘らずに世俗から離れて節操を保つ者、高才・博学にして経史を著述する者、危機に臨んでも我が身を顧みずに国家や君主への義に殉じた者、忠心から諫言を行うも処罰されてしまった者、使節として臨機応変に交渉して災禍を減らした者、武勇や智略により乱を鎮めた者、主君を誤った方へ導いて忠賢な者を陥れた者等、全てを詳しく州府まで文書で報告させた。州郡の父老はみなこれを互いに慶賀し合ったという。 310年11月、洛陽より使者が到来し、張軌は鎮西将軍・都督隴右諸軍事に任じられ、覇城侯に封じられた。また、光禄卿傅祗・太常摯虞は張軌の下へ信書を送り、洛陽の物資・食糧の不足を訴えた。これを受け、張軌は即座に参軍杜勲を洛陽へ派遣し、朝廷に馬5百匹・布3万匹を献上した。 311年5月、朝廷は張軌を車騎大将軍 に任じ、開府儀同三司の特権を与える事を決めた。だが、その文書が張軌に届く前に、漢の軍勢が洛陽に迫ったとの報があり、張軌は北宮純・張斐・郭敷らに精鋭5千を与えて洛陽救援を命じたたが、既に晋朝の主力軍は壊滅しており、もはや抗う力は残っていなかった。漢軍の攻勢の前に洛陽はあえなく陥落し、懐帝を始め皇室・官吏も捕虜となってしまった。北宮純はかろうじて長安に逃れたものの、張斐らは捕らえられて殺害された。
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