洛陽の陥落と皇帝即位
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「愍帝 (西晋)」の記事における「洛陽の陥落と皇帝即位」の解説
永康元年(300年)に呉孝王司馬晏の三男として生まれる。兄に淮南王司馬祥、弟に済南王司馬固・済陰王司馬衍がいる。伯父の秦献王司馬柬の跡を継いで秦王となる。永嘉2年(308年)に散騎常侍・撫軍将軍を拝す。 永嘉の乱の際は河南に逃れており、永嘉5年(311年)6月、漢により都の洛陽が陥落。懐帝・太子が平陽に連行される。父の司馬晏はこの時殺害されているが、司馬鄴は母の兄弟の荀藩・荀組と共に豫州に逃れた。豫州刺史の閻鼎が司馬鄴を長安に擁立しようとし、司馬鄴は閻鼎らと宛から武関を経由して関中に逃れた。雍州刺史の賈疋が閻鼎からの要請に応じ、護衛を派遣する。12月、雍城に入る。 永嘉6年(312年)4月、雍城から長安に移った。9月、皇太子に擁立される。賈疋に征西大将軍を加え、秦州刺史の南陽王司馬保を大司馬とする。賈疋が張連と戦い敗死したため、始平郡太守の麹允が雍州刺史を代行する。 建興元年(313年)4月、懐帝崩御の知らせを受けて長安で皇帝に即位した。しかし、即位時に西晋の支配が及んだのは都長安周辺に過ぎない関中地域政権であり、しかもその長安は八王の乱などで100戸余りしかないほど荒廃しており風前の灯に近い状態であった。衛将軍の梁芬を司徒、雍州刺史の麹允を使持節・領軍将軍・録尚書事に、京兆太守の索綝を尚書右僕射に任命する。5月、鎮東大将軍の琅邪王司馬睿を侍中・左丞相・大都督・陝東諸軍事とし、大司馬の南陽王司馬保を右丞相・大都督・陝西諸軍事とする。
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