洛陽で大敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 19:05 UTC 版)
7月、石勒は石虎に4万の兵を与えると、軹関から西に向かい、河東を攻撃した。石虎に呼応したのは50県余りに上り、石虎は易々と蒲坂まで軍を進めた。劉曜は自ら中外の水陸の精鋭部隊を率いると、蒲坂の救援に向かった。衛関から北へと渡河すると、石虎は恐れて退却を始めた。劉曜はこれに追撃を掛け、8月に入ると高候で追いつき、石虎軍を潰滅させた。将軍の石瞻を斬り、屍は200里余りに渡って連なり、鹵獲した軍資は億を数えた。石虎は朝歌に逃げ込んだ。劉曜は大陽から渡河して、一気に金墉を守る石生に攻撃を仕掛けると、千金堤を決壊させて水攻めにした。 11月、石勒は自ら4万の兵を率いて洛陽救援に向かい、12月には後趙の諸軍は成皋関に集結した。その兵数は歩兵6万・騎兵27000であった。前趙の兵卒が備えをしていないのを見ると、石勒は大いに喜び、間道から敵へ迫った。この時、劉曜は士兵を労わる事無く、寵臣と共に酒と博打に耽っていた。左右の側近が諫めると、劉曜は怒り心頭となり、妖言を為したとしてその場で斬り捨てた。石勒が自ら大軍を率いて渡河を終えたとの報がもたらされると、劉曜は軍議を開き、滎陽の守備兵の追加と、黄馬関の封鎖を決めた。さらに捕らえた後趙軍の斥候から石勒軍の勢いを聞かされると、劉曜はこれに恐れをなして金墉城の包囲を解いて撤退すると、洛西の南北10里余りに渡って布陣しなおした。石勒はこれを見てますます喜び、 4万の軍勢を率いて洛陽に入城した。 石虎が歩兵3万を率いて城北から西進し、前趙の中軍を攻撃した。石堪・石聡は各々精騎8000を率いて城西から北進し、前趙の先鋒を攻撃した。そして、石勒は洛陽西面の最北の門から突撃し、敵を挟撃した。石勒軍が到来すると、劉曜はこれに対峙したが、この時既に数斗の酒を飲んでおり、出陣間際になるとさらに1斗余りの酒を飲んでから出撃した。しかし劉曜軍は布陣が完成しないうちに石勒の配下の石堪の急襲を受け、完全に虚を突かれた劉曜軍は壊滅し、5万余りが討ち取られた。劉曜も前後不覚のまま敗走し、馬を御する事もままならなかった。馬は石渠に脚を取られ、劉曜は氷上に叩きつけられ、10余りの傷を負った。そしてついに石堪の兵に捕えられ、身柄を石勒の下へと護送された。
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