洛陽へ侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 00:24 UTC 版)
362年1月、豫州刺史孫興は上表して「晋将陳祐は弱兵1000余りで孤立した城(洛陽)を守っております。取らない手はありません!」と訴え、東晋の勢力下にあった洛陽を攻めるよう勧めた。慕容暐はこれを聞き入れ、護軍将軍傅顔・寧南将軍呂護に兵を与えて河陰へ侵攻させた。 同月、傅顔は北の勅勒を襲撃し、大戦果を挙げてから帰還した。 2月、呂護は小規模な砦を攻め落としながら単独で侵攻を続け、洛陽へ迫った。3月、東晋の輔国将軍・河南郡太守戴施は大いに恐れて宛へ逃走し、冠軍将軍陳祐は東晋朝廷へ救援を要請した。5月、東晋の大司馬桓温は北中郎将庾希と竟陵郡太守鄧遐に3千の水軍を与えて洛陽救援に向かわせた。 6月、信都を守る征東将軍・冀州刺史・范陽王慕容友が配下の征東参軍劉抜に刺殺された。 7月、救援軍の到来により呂護は小平津まで軍を退いたが、流れ矢に当たって戦死した。将軍段崇は残兵を纏めて北へ撤退し、野王に戻った。鄧遐は新城まで進出した。前燕の将軍劉則は檀丘において庾希配下の何謙を破り、その軍を撤退させた。 8月、東晋の西中郎将袁真は汝南へ進み、米五万斛を洛陽へ送った。庾希は下邳より後退して山陽を鎮守した。 11月、代王拓跋什翼犍は国の女を前燕へ送り、慕容暐の妾とするよう勧めた。慕容暐はこれを認め、後宮に入れた。
※この「洛陽へ侵攻」の解説は、「慕容暐」の解説の一部です。
「洛陽へ侵攻」を含む「慕容暐」の記事については、「慕容暐」の概要を参照ください。
- 洛陽へ侵攻のページへのリンク