第二次・三次洛陽侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 03:18 UTC 版)
8月、劉聡と共に1万騎を率いて洛陽へ侵攻し、龍驤大将軍劉曜・安北将軍趙固らが後詰となった。漢軍は東海王司馬越が派遣した平北将軍曹武らを破り、続けざまに平昌公司馬模が派遣した淳于定らも撃退すると、進軍を続けて宜陽まで到達し、二学(国学と太学)を焼き払った。9月、劉聡は勝ちに驕って備えを怠っており、弘農郡太守垣延の偽装投降からの夜襲を受けて大敗を喫してしまった。これにより、漢軍は平陽へ撤退した。 10月、劉聡・劉曜・汝陰王劉景らと共に精鋭5万を率いて再び洛陽へ侵攻し、大司空呼延翼が歩兵を率いて後続となった。西晋朝廷は漢軍を撃退したばかりだったため、すぐにまた到来するとは思っておらず、大いに衝撃を受けた。漢軍は河南で晋軍を打ち破ると、宜陽から西明門に進んで駐屯した。西晋の護軍賈胤や北宮純らは宵闇に乗じ、勇士千人余りを率いて夜襲を掛け、大夏門において漢軍は敗れて征虜将軍呼延顥が討ち取られた。その為、南へ軍を後退させて洛水に陣営を築いたが、呼延翼が部下の反逆により殺されてしまい、その部隊は潰走してしまった。それでも劉聡は攻勢を崩さずに再び宣陽門に進駐すると、王弥は広陽門に駐屯し、劉曜・劉景らと共に各門から攻勢をかけた。だが、劉聡は戦場の視察の為に本陣を留守にした隙を突かれ、司馬越配下の太傅参軍孫詢・丘光・楼裒らに奇襲を掛けられ、大敗を喫してしまった。 ここに至って王弥は劉聡へ「今、(我々の)軍は利を失っており、洛陽の守備もなお強固です。また車の運送しようにも道が狭く、糧食は数日も支えきれません。殿下は龍驤(龍驤大将軍の劉曜)と共に平陽に戻られるべきです。糧食を徴発した後にまた挙兵しましょう。下官(自分の事)も兵士と食糧を集め、兗州や豫州で命を待ちます。来るべき日に備えておきます。これをどうして不可としましょうか」と進言した。劉聡は今更帰還など出来ないとして軍を動かそうとしなかったが、劉淵からも撤退命令が届くと、遂に軍を帰還させた。 11月、王弥もまた轘轅関から撤退したが、司馬越配下の薄盛・李惲らより追撃を受け、新汲においてこれを迎え撃つも敗れ去った。その後、2千騎を率いて襄城の諸県へ侵攻した。当時、河東・平陽・弘農・上党に住んでいた数万家の民が、潁川・襄城・汝南・南陽・河南に避難してきていた。彼らは元々いた住民から冷遇されていたことから、城村を焼き払い、二千石の長吏を殺害して王弥に呼応した。
※この「第二次・三次洛陽侵攻」の解説は、「王弥」の解説の一部です。
「第二次・三次洛陽侵攻」を含む「王弥」の記事については、「王弥」の概要を参照ください。
- 第二次・三次洛陽侵攻のページへのリンク