第二次三閉伊一揆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 08:57 UTC 版)
佐渡は22歳で家老になるが、嘉永6年(1853年)、総勢3万5千人とも言われる江戸時代最大規模の一揆である三閉伊一揆が起きる。佐渡は当時隠居として藩政の実権を握る南部利済に諫言したため一度罷免されるが、江戸幕府老中の阿部正弘の計らいで再勤し、最終的には仙台藩とうまく交渉をして、一揆をとりまとめることに成功する。佐渡は仙台藩に幕府への届出を猶予してもらうよう願い出る使者を発し、日本史に残る農民運動となった一揆も終止符を打ち、佐渡は盛岡藩の危機を救った。ただ、このために佐渡は仙台藩に借りができたと見る人もいる。 一方で、一揆側の要求の一つであった先代藩主・南部利義の復帰及び帰国を退けたので、利済の傀儡として立てられた藩主の南部利剛もまた佐渡に借りが出来ることになった。
※この「第二次三閉伊一揆」の解説は、「楢山佐渡」の解説の一部です。
「第二次三閉伊一揆」を含む「楢山佐渡」の記事については、「楢山佐渡」の概要を参照ください。
- 第二次三閉伊一揆のページへのリンク