第二次ロンバルディア同盟の結成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/16 08:40 UTC 版)
「ロンバルディア同盟」の記事における「第二次ロンバルディア同盟の結成」の解説
1226年、フリードリヒ2世は、第6回十字軍(破門十字軍、実行:1228年 - 1229年)に備えてイタリア諸侯(Princes of the Holy Roman Empire)を召集すべく、イタリアに出兵した。ロンバルディア同盟は再びこれに対抗した。 イタリアにおいてより大きな権力を得ようとする試みを妨げられたフリードリヒ2世は、ロンバルディア同盟に対し帝国アハト刑を宣告した。フリードリヒ2世はヴィチェンツァを奪還し、1237年のコルテヌオーヴァの戦い(イタリア語版、フランス語版、英語版)で勝利を収めて、戦略家としての名声を高めた。しかしながら、ミラノからの和平提案を退け、ミラノの無条件降服に固執したことは、フリードリヒ2世の判断の誤りであった。ミラノは他の5都市と連合して徹底抗戦を続け、結局1238年10月、フリードリヒ2世はブレシアの包囲を解いて撤退しなければならなかった。 その後もロンバルディア同盟は、教皇グレゴリウス9世(在位:1227年 - 1241年)の支持を得てフリードリヒ2世と対抗した。1248年のパルマの戦い(英語版)において同盟側は皇帝の本営を襲撃・略奪し、続く戦いで皇帝軍を敗走させた。 1250年にフリードリヒ2世が死去。その後、神聖ローマ帝国がイタリアに影響を及ぼすことは少なくなっていく。
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