第二次ロッキンガム侯爵内閣
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「チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)」の記事における「第二次ロッキンガム侯爵内閣」の解説
1781年にはアメリカ独立戦争におけるイギリスの敗戦が決定的となり、1782年2月22日に戦争終結を求める動議が庶民院で可決された。続いて3月8日と15日にノース卿内閣不信任案が提出された。不信任案は否決されたもののわずか10票差であったため、ノース卿は議会における自らの求心力低下を悟り、総辞職した。 アメリカ独立承認を頑なに拒んできた国王ジョージ3世も、いよいよロッキンガム侯爵に組閣交渉を行わねばならなくなった。ロッキンガム侯爵はアメリカ独立や経済改革を国王が支持することを条件として提示し、対して国王はシェルバーン伯爵を閣僚として入閣させる事を条件として提示した。両者が妥協に達した結果、ロッキンガム侯爵を首相、シェルバーン伯爵を内務大臣、フォックスを外務大臣とする第二次ロッキンガム侯爵内閣(英語版)が成立した。ロッキンガム派の政党重視がある程度実現されたものの、いまだ国王の一定の影響力を受ける顔ぶれの内閣であった。 陸軍支払長官として入閣したバークの主導で「行政機構改革法」が成立し、アメリカ植民地関連の100以上の官職がもはや無用の物として廃止された。一方議会外のヨークシャー運動で盛り上がっていた議会改革案に対してはロッキンガム派の中でも意見が別れた。フォックスが議会改革に前向きだったのに対して、ロッキンガム侯爵やバークは慎重だった。またアメリカとの交渉をめぐってはアメリカの完全独立に反対するシェルバーン伯爵とアメリカ完全独立を求めるフォックスの閣内対立が深まった。国王も内閣への影響力を失うまいと意図的にシェルバーン伯爵を支援して閣内対立を煽っていた。 そんな中の1782年6月末にロッキンガム侯爵は病気で重体となり、7月1日には死去した。彼の死後、シェルバーン伯爵に組閣の大命があり、それに反発したフォックスらロッキンガム派は下野し、以降ロッキンガム派はフォックスが指導するようになり「フォックス派」と呼ばれるようになった。これはロッキンガム派がもはや指導者個人の人脈の集まりではなく、政治思想に基づいた集団、つまり政党になっていたことを意味している。 ロッキンガム侯爵はヨーク大聖堂に埋葬された。子供は無く、彼の死とともにロッキンガム侯爵位は廃絶した。
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