第二次ランソン攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 02:07 UTC 版)
第1旅団が後退したランソンは雲南軍と歩調を合わせた広西軍の包囲攻撃を受けていた。第2旅団は少ない手勢で攻撃に耐え、広西軍に反撃してランソン奪還を諦めさせた。雲南軍の勝利に広西軍が乗じる事を防いだ第2旅団は広西軍を追撃して前述の国境攻撃を再開しようとしたが、その途中で前線司令官ネグリエが負傷したことで指揮系統が麻痺してしまった。指揮権を引き継いだ副官ポール=ギュスターヴ・エルバンジェ(フランス語版)は普仏戦争で名を挙げた人物だったが、前線司令官としては能力を発揮できなかった。第1旅団は追撃を行わず、第2旅団の敗北を埋め合わせて余りある機会を取り逃してしまった。そればかりかバンボーの戦いでの敗北による兵士の士気低下や、広西軍や雲南軍の反撃などで平静な判断力を失ったフランス軍はランソンを自ら捨てて敗走してしまった(第二次ランソン攻勢(英語版))。エルバンジェも戦死した。 実際には広西軍は反撃を行える状態になく、雲南軍もランソンの戦いに参戦する可能性は無かった。フランス軍内でも反対意見は存在したが、現実に反映されることはなかった。一向に始まる気配のない追撃の恐怖に、フランス軍部隊は最低限の物資しか持ち出さず、我先に逃げ出していった。その為、体制を立て直した広西軍の潘鼎新が「フランス軍敗走」という思いがけない報告にランソンを再占領した時、そこにはフランス製の膨大な物資や武器が残されていた。命からがら後方へ逃げ去ったフランス兵達は恐怖や疲労から極度に士気を落としていたが、広西軍もまた大きな損害を蒙っていたので追撃は行われなかった。しかし代わりに追い討ちを掛けるように黒旗軍と雲南軍が西方でフランス軍の守備隊を撃破して敗走させ(フー・ラム・タオの戦い(英語版))、フランス軍の恐慌状態に拍車を掛けた。
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