フェリー政権崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 02:07 UTC 版)
第二次ランソン攻勢でのフランス軍の醜態は戦いの結果ではなく、存在しない追撃に自ら怯えた結果であった。従って敗走の後ですら依然としてフランス軍は一定の優位を保っていたが、平静さを失った前線からの報告はブリエール将軍ら後方司令部にも恐怖を伝染させた。3月28日、フランス軍司令部は本国に敗戦の可能性を通達、軍の電報にパリのフランス政府は大きな衝撃を受けた。報告を受けたフェリー首相が速やかに反撃に転じる様に命令すると、ブリエールも「状況が安定化する可能性もある」と報告を修正した。しかし前線と同じく厭戦感情が沸き始めたフランス本国で、この電報の内容は余りにも衝撃的だった。 最初の電報が公に公開されると直ぐに議会で戦争継続の是非を問う議論が紛糾し、戦争の泥沼化に対してフェリー政権への不信任案が提出される事態に発展、3月30日にジュール・フェリーは首相を解任された。彼は二度と同職に復帰することはなく、政界でも閑職へと回された。トンキン騒動(英語版)と呼ばれるこの政治問題はフェリーの政治家としての前途を完全に終わらせてしまったのである。
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