清仏戦争とは? わかりやすく解説

しんふつ‐せんそう〔‐センサウ〕【清仏戦争】


清仏戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 02:07 UTC 版)

清仏戦争(しんふつせんそう、簡体字中国語: 中法战争繁体字中国語: 中法戰爭ベトナム語: Chiến tranh Pháp-Thanh/戰争法清フランス語: Guerre franco-chinoise)は、1884年8月と1885年4月にかけて起きた、ベトナム(越南)領有を巡るフランスとの間の戦争


  1. ^ 黄文雄『中国・韓国が死んでも教えない近現代史』徳間書店〈徳間文庫〉、2005年。ISBN 419892273X
  2. ^ 犬塚孝明『明治外交官物語:鹿鳴館の時代』<歴史文化ライブラリー> 吉川弘文館 2009年 ISBN 9784642056809 pp.171-175.


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清仏戦争

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1884年に清仏戦争が勃発すると、アメデ・クールベ率いフランス艦隊台湾来襲し、9月18日より雞籠現在の基隆市)で清軍と砲撃戦展開し10月3日雞籠城を占領したフランス軍10月7日10月8日滬尾(現新北市淡水区)に侵攻したが、漳州鎮総兵孫開敗れたため、清軍とフランス軍長期にわたって対峙することとなった11月台中駐屯していた台澎兵備道劉璈は劉銘伝の命を受け、兵部中の林朝棟北上して参戦することを求めた林朝棟5百名の郷勇率いて大水窟(基隆市安楽区)の守りについた1885年1月9日フランス軍は大牛埔(現新北市貢寮区)の地形調査したところ、林朝棟軍と衝突し林朝棟軍に撃退された。1月25日より第1次眉山戦いがおこり、フランス軍1900名の兵で清軍に攻撃開始したが、林朝棟福建福寧鎮曹志忠は1月30日夜襲をかけ、双方は兵を引いたこの後フランス軍小規模な攻撃繰り返したが、いずれも林朝棟撃退された。3月4日フランス軍は再び1280名の兵で攻撃をかけ、第2次月眉山戦いおこったフランス軍は清軍の戦線破り、月眉山頂を占領し、清軍は壊滅したわずかに林朝棟率い郷勇勇戦し、清軍の主力基隆河南岸撤退させることに成功したこの後両軍対峙続けたが、1885年6月13日よりフランス軍撤退して戦闘終息した。5月12日林朝棟戦功より道員に欠員ができたときに優先して補任されることになったこの後台湾30近く郷勇解散されることになったが、林朝棟軍は正規軍編入され林朝棟本人劉銘伝重用されることになった

※この「清仏戦争」の解説は、「林朝棟」の解説の一部です。» 「林朝棟」の概要を見る

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