しんふつ‐せんそう〔‐センサウ〕【清仏戦争】
清仏戦争
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清仏戦争(しんふつせんそう、簡体字中国語: 中法战争、繁体字中国語: 中法戰爭、ベトナム語: Chiến tranh Pháp-Thanh/戰争法清、フランス語: Guerre franco-chinoise)は、1884年8月と1885年4月にかけて起きた、ベトナム(越南)領有を巡るフランスと清との間の戦争。
- ^ 黄文雄『中国・韓国が死んでも教えない近現代史』徳間書店〈徳間文庫〉、2005年。ISBN 419892273X。
- ^ 犬塚孝明『明治外交官物語:鹿鳴館の時代』<歴史文化ライブラリー> 吉川弘文館 2009年 ISBN 9784642056809 pp.171-175.
清仏戦争
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1884年に清仏戦争が勃発すると、アメデ・クールベ率いるフランス艦隊は台湾に来襲し、9月18日より雞籠(現在の基隆市)で清軍と砲撃戦を展開し、10月3日に雞籠城を占領した。フランス軍は10月7日と10月8日に滬尾(現新北市淡水区)に侵攻したが、漳州鎮総兵孫開華に敗れたため、清軍とフランス軍は長期にわたって対峙することとなった。 11月、台中に駐屯していた台澎兵備道劉璈は劉銘伝の命を受け、兵部郎中の林朝棟に北上して参戦することを求めた。林朝棟は5百名の郷勇を率いて大水窟(基隆市安楽区)の守りについた。1885年1月9日、フランス軍は大牛埔(現新北市貢寮区)の地形を調査したところ、林朝棟軍と衝突し、林朝棟軍に撃退された。1月25日より第1次月眉山の戦いがおこり、フランス軍は1900名の兵で清軍に攻撃を開始したが、林朝棟と福建福寧鎮曹志忠は1月30日に夜襲をかけ、双方は兵を引いた。この後もフランス軍は小規模な攻撃を繰り返したが、いずれも林朝棟に撃退された。3月4日、フランス軍は再び1280名の兵で攻撃をかけ、第2次月眉山の戦いがおこった。フランス軍は清軍の戦線を破り、月眉山頂を占領し、清軍は壊滅した。わずかに林朝棟率いる郷勇が勇戦し、清軍の主力を基隆河南岸に撤退させることに成功した。 この後、両軍は対峙を続けたが、1885年6月13日よりフランス軍は撤退して戦闘は終息した。5月12日、林朝棟は戦功により道員に欠員ができたときに優先して補任されることになった。この後、台湾の30営近くの郷勇は解散されることになったが、林朝棟軍は正規軍に編入され、林朝棟本人も劉銘伝に重用されることになった。
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