清代における領封と頒封の意見対立と経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)
「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「清代における領封と頒封の意見対立と経過」の解説
三藩の乱の勃発による対清関係の危機を乗り越えた後、まず懸案として持ち上がったのが尚貞の冊封問題であった。尚貞は1669年に王位を継承していたが、鄭氏政権の妨害、そして三藩の乱という混乱の中、まだ冊封を受けていなかった。前述のように1676年に蔡国器が清に派遣されたが、この際、請封は行わなかった。その後薩摩藩は尚貞の請封を早めに行うように働きかけていたが、琉球側は慎重な姿勢を崩さなかった。これはいまだ鄭氏政権など反清勢力の活動が見られる中での清への請封に慎重になっていたからだと見られている。実際1678年の進貢時、琉球は請封を行わなかった。 1680年の進貢時、琉球は尚貞の冊封問題に関して大きな方針転換をする。これまで保留扱いであった請封を行ったのである。これは翌1681年には三藩の乱が終結し、鄭氏政権も1683年に清に降伏するなど、清が中国で安定政権を維持する見通しが明らかになってきたこと、そしてもう一つ、薩摩藩、幕府との関係から来る事情があった。実際問題琉球のことを薩摩藩、江戸幕府とも信用しきっていた訳ではなく、異心を抱いているのではないかとの疑念を抱いていた。一方、琉球側からすれば薩摩藩、江戸幕府によって自主性が阻害されている現状に対する危機感もあった。清の覇権が明らかになりつつある中で、国王の冊封を受けて清の後ろ盾を得ることが琉球の利益になると判断したのである。 琉球側は1680年の請封時、従来通り冊封使が琉球に派遣されて儀式を行う頒封を要請した。しかし琉球の要請を受けた礼部は、冊封には賛成したものの、前回の尚質の冊封は琉球が清に帰順して最初の冊封であったため、清の徳威を示すために頒封を行ったものであるが、2回目以降は頒封にこだわる必要性は薄い上に、予算面や海を渡って冊封使を派遣する危険性を指摘して、冊封詔書を冊封使に持ち帰らせる領封を行うとの案を康熙帝に提出し、康熙帝もその案を認めた。しかし領封の決定を聞いた琉球の冊封使から頒封を願う請願書が康熙帝に提出される。康熙帝は冊封使からの請願書を読み、礼部に再議を命じた。礼部は琉球側の再考要請を退け、改めて領封が適当であると答申した。 ところが康熙帝は礼部の判断を覆した。康熙帝は先年の三藩の乱時、琉球が靖南王耿精忠の援助要請を撥ねつけ、乱の安否を尋ねる使者を送って来たとの上奏を重視した。琉球の忠誠は褒め称えられるべきで、この忠誠心に報いなければならないと琉球への冊封使派遣を命じた。康熙帝の頒封決定は琉球にとって清の徳威を改めて実感させる効果があった。そして1681年、尚質の冊封を行う冊封使が任命され、翌1682年、琉球に派遣された。なおこれまで琉球への冊封使は乗船用の船を新造していたが、この1682年の冊封使以降、経費節減のため既製の船で琉球に向かうようになった。そしてこの康熙帝自らの決定による琉球国王の頒封とその手続き事項は、乾隆年間には礼部の規定である「礼部則令」、そして嘉慶年間には法令や規則集である会典に記載される。 琉球の忠誠心を評価した康熙帝は、もう一つ琉球の懸案について琉球側に有利な決定を行っている。1678年の進貢時、琉球側は改めて進貢船の帰琉を速やかに行った後、進貢の翌年、つまり進貢船が派遣されない年に進貢使らが帰国することを名目とした接貢船の派遣を試みた。この接貢船の派遣は前述のように本音としては清に対する朝貢貿易の機会を毎年得ることを目的としたものである。この時は琉球側のもくろみ通り、進貢船の早期帰琉と接貢船による進貢使の帰国が認められた。接貢船の派遣は1685年に清側から正式に認められ、1689年以降、2年ごとである進貢船が派遣されない年に接貢船の派遣が定例化した。また1688年に琉球国王尚貞から行われた、進貢船は2隻の派遣で乗員200名を上限とし接貢船は1隻派遣とすることと、進貢、接貢時の朝貢貿易の免税措置の要請がなされた。康熙帝はやはり琉球の忠誠心の高さを評価してこれを認める決定を下している。
※この「清代における領封と頒封の意見対立と経過」の解説は、「琉球の朝貢と冊封の歴史」の解説の一部です。
「清代における領封と頒封の意見対立と経過」を含む「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事については、「琉球の朝貢と冊封の歴史」の概要を参照ください。
- 清代における領封と頒封の意見対立と経過のページへのリンク