清仏戦争勃発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 02:07 UTC 版)
清軍が成果を出さなかったため対外強硬派の張之洞らの力が落ちた。フランス軍によってフンホア(興化)とタイグエン(太原)が攻め落とされると一層に李鴻章ら和平派が力を持ち始め、清の西太后は天津で李鴻章に司令官代理フルニエとの交渉を再開する様に命じた。1884年5月11日、清軍の撤退・トンキン分割・貿易路の確定などを取り決めた天津停戦協定(英語版)(李・フルニエ協定)が結ばれた。清国はフランスによるコーチシナ・トンキンの植民地化も追認し、各地にフランス軍が駐屯することを黙認した。しかし停戦協定に不備があり、清軍の撤退時期が明確でなかった。フランスは清軍の即時撤退を要求したが、清は条約の履行次第であると拒絶した。撤兵問題で両国は対立、清朝では戦争再開を主張する強硬派政治家達だけでなく私怨を持つ翁同龢らが加わって李鴻章の解任を要求し、更に密かに軍勢を前線に移動させた。 6月6日、フランス公使ユール・パトノートル(英語版)が阮朝ベトナム代表グエン・ヴァン・トゥオン(英語版)(阮文祥)と甲申条約(英語版)(パトノートル条約、Patenôtre Treaty)を新たに締結した。同時期の6月、フランス軍は清軍がランソンからの撤退すると考え、駐屯部隊を差し向けた。6月23日、バクレ地方を通過していたフランス軍は通行を妨害する広西軍の分遣部隊と遭遇。フランス軍は清国軍側に最後通牒を突きつけて攻撃を開始したバクレの戦い(英語版)(バクレ伏兵事件)が、反撃を受けて敗走した。 この事件後、フランス本国では開戦論が高まった。フィリー政権は清国に謝罪と賠償金を要求したが、清国は交渉には同意したものの賠償や謝罪は拒否。両国の対立は深まり交渉は決裂。フランス軍はクールベ提督の艦隊を福州に移動させて、清国海軍の福州船政局への攻撃に備える様に命令された。1884年8月5日、フランス海軍は台湾の基隆湾にある石浦湾に砲撃を行い3台の沿岸砲台を破壊して基隆に海兵部隊を上陸させ、劉銘傳指揮の清国軍が来援したために撤退した。 これにより両国は事実上の戦争状態に突入、清仏戦争が勃発した。
※この「清仏戦争勃発」の解説は、「清仏戦争」の解説の一部です。
「清仏戦争勃発」を含む「清仏戦争」の記事については、「清仏戦争」の概要を参照ください。
- 清仏戦争勃発のページへのリンク