清代のトゥメト左右翼とは? わかりやすく解説

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清代のトゥメト左右翼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/03 06:48 UTC 版)

トゥメト」の記事における「清代のトゥメト左右翼」の解説

後にトゥメト部左右翼に分かれ異姓で同牧することとなる。左翼チンギス・カン四駿四狗のひとり、ジェルメ(済拉瑪)の後裔であり、ジェルメから13代後のシャンバ(善巴)に至りハラチン部と近族となる。右翼チンギス・カン後裔ボルジギン氏であり、チンギス・カンから19代後のエムブチュフル(鄂木布琥爾)に至り、子のグム(固穆)が生まれ帰化城のトゥメト部と近族となる。 後金天聡3年1629年)、シャンバとエムブチュフルは各一族率いて後金帰順する天聡8年1634年6月トゥメト部後金の明征伐従軍した7月、独石口より明辺侵入し大軍保安州会し、分兵して都統ウネゲ(武訥格)に属しチャハル部辺境攻略した翌年1635年)、ホンタイジは詔で所部スムン(佐領)を編成しジャサク(扎薩克)を三つ設けた一つはシャンバ(善巴)、一つはゲンゲル(賡格爾)、一つはエムブチュフル(鄂木布琥爾)である。ゲンゲル(賡格爾)はシャンバ(善巴)の一族である。 清の崇徳2年1637年)、罪によってゲンゲルのジャサク(扎薩克)が削られたため、シャンバはその衆を領した。これよりトゥメト土默特)は左右翼に分かれ、シャンバとエムブチュフルがこれを掌握することとなる。 崇徳6年1641年)、錦州包囲従軍し総督洪承疇破って援兵した。崇徳8年1643年)、ラオユ・ベイレ(饒余貝勒)のアバタイ(阿巴泰)の明征伐従軍する順治元年1644年)、山海関侵入従軍し流賊李自成を撃つ。順治3年1646年)、スニト尼特)部叛人のタンジス(騰機思)殲滅随う康熙元年1662年)、ハルハ部タイジ(台吉)のバルブビントゥ(巴爾布冰図)が清に帰順してきたので、康熙帝は詔でトゥメト部附け遊牧させた。康熙13年1674年)、大軍は逆藩の耿精忠等を討ち康熙帝は詔でトゥメト部のタブナン(塔布嚢)シャンダ(善達)にハラチン部のタブナン(塔布嚢)ホジゲル(霍済格爾)とともに兗州聴調に赴かせた。 雍正3年1725年)、タブナンのシャジン・ダライ(沙津達賚)は清軍に従軍しジュンガル防いだ雍正7年1729年)、鎮国公(トシェグン)に封ぜられる雍正9年1731年)、大将軍の傅爾丹はジュンガルをホトンフルハノル(和通呼爾哈諾爾)で撃ったが、シャジン・ダライ(沙津達賚)が陣から逃げたため、爵を削ったトゥメト部は参賛内大臣のマランタイ(馬蘭泰)に随い、賊のシルハジョ(西爾哈昭)を破り甚だ賊衆を斬り捕えたため、恥をはらすことができた。 乾隆41年1776年)、清朝トゥメト所部を墾地して朝陽県を置く。 光緒17年1891年)、アオハン部の金丹道匪の変にて、トゥメト部同時に擾を被った

※この「清代のトゥメト左右翼」の解説は、「トゥメト」の解説の一部です。
「清代のトゥメト左右翼」を含む「トゥメト」の記事については、「トゥメト」の概要を参照ください。

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